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 国民国家とナショナリズム
とほほのとほほ空間:日本人のお行儀より。
---
「いまや何をなすべきか。まずわれわれはヴェルサイユで、この条約(講和条約)の徹底的な改訂のために全力を注ぐべきである。それに成功したならば、これに調印すべきである。もし成功しなかったならば、どうすべきか。その場合は積極的な抵抗も、消極的な抵抗も試みるべきではない。わが国の代表ブロックドルフ=ランツァウ伯(Ulrich von Brockdorff-Rantzau。外相)は、憲法制定議会を解散する正式の布告と、大統領以下全閣僚の辞表とを敵国政府に手交し、ただちにドイツの主権と全政府機構とをひきつぐことをかれらに要請すべきである。かくすることによって、平和に対する責任、統治に対する責任、いや、いっさいのドイツの行動にたいする責任は、かれら敵国政府のものとなる。かれらは世界と歴史と自国民の前で、六千万のドイツ人の面倒をみなければならなくなる。これは歴史上前例をみない国家の破滅の仕方であるが、それこそがドイツ人の名誉および良心と両立する方法である。」
--- 「東郷重徳、伝記と解説」萩原延壽著、原書房より ---
以上は第一次大戦後に、ドイツに突きつけられた講和条約に対するワルター・ラーテナウ(Walther Rathenau)の言葉である。ラーテナウと言う人物は共産主義(ポルシェヴィズム)と言う新思想に対し激しい危機感と嫌悪を抱いていた当時の諸国指導者層の中において、共産主義を冷静に分析しいわゆる「感情的嫌悪」とは一線を画しており「共産主義への恐怖心」も持たなかった実業家である、彼は共産主義を人類の試験的試みと見ていた。

さてここで持ち出したラーテナウの言葉と彼の共産主義への対応とは関係ない。
もちろん講和条約に対するラーテナウの自暴自棄的な言動とも見ることもできる。
周知のように、ドイツはこの講和条約を受け入れる以外にその主権を維持する道はなく、そしてラーテナウの言葉のように主権を放棄することはなく、ドイツ国民議会は講和条約への調印後共和国憲法を発布しワイマール共和国の過酷な道のりがはじまるわけである。ワイマール共和国はカップクーデターを皮切りにあらゆる右翼勢力からの攻撃を受け最終的にナチズムが台頭するようになる。ラーテナウの言動はこうした右翼勢力を扇動する結果になったのかもしれない。

私は、現日本が本当に民主主義国家であるならば、対中外交(対中に限らないが)においてこのラーテナウの言葉の実践こそが日本人民のあるべき立場だと思う。国民国家と言う概念や価値観に依存して生きていく以上その国民国家が犯した罪は永劫にその責と業を国民が背負う。国民国家の概念から超越した世界秩序がありえないのであれば、そしてその国家が民主主義を維持しようとするなら、それ以外に日本人民がその尊厳と良心を両立させて生き残る道はない。
中国に主権を渡したところで何もおそれるものはない。我々日本人は「民主主義者」である、香港がそうあるように日本もそのようにあればよい。日本がそうなった時にはじめてそれこそ中国本土の民主化は我々(その時の我々は中国人民である)の民主主義の為の緊急課題となるのである。

戦争責任問題は私に問う。
「戦後に生まれた我々に戦争の責任はあるのか?」
私はこう答える。
「我々にはもちろん責任はない、が国民国家の国民である責任として、その体制からもたらされた富により私の命は存在するのであり、正しい歴史を後世に伝えねばならない。」

さらに懐疑的な私の中の戦争責任回避論者は問う。
「個人(少なくとも戦後に生まれた個人)にどうしようもなかった戦争、に対して何らかの責任を負わせる事は個人としての人権を侵すものではないか?」
「個人の人権を生かすと言うことは、他者の人権の尊重に他ならない、犠牲者またはその遺族の人権を尊重することこそ己の人権を護る事になる」

懐疑的な回避論者はまだおさまらない。
「他人の犯した人権侵害について関係のない個人が責を負うのか?」
「国民国家の国民である以上その責から逃れられない。」

こうした終わりのない議論をしているときに私はふと気がつく。
この議論は所詮は「国民国家」の国民である事の枠から超越せねば、延々と続く。そしてなぜ自分が「国民」であるのか?「国民」ではない自分はありえないのか?となり、そして「国民」であればこそ「人権」を有するのか?と帰結する。
そして私の解答は否である、人権は万人に与えられた権利であり私が国民である必要はない。
しかし国民である事は逃れられない現実なのだ。

****氏の言説にある通り「中国の排他的ナショナリズム」が「民主主義の敵」であるとしても、その国境の外側からそれを攻撃する事はできない。なぜなら外部ナショナリズムに対抗できるのは内部ナショナリズムだけであるからだ、この内部ナショナリズムは往々にして民主主義の御旗の下に正義の衣を着ており、この内部ナショナリズムもまた「民主主義の敵」になりかねない。民主主義者である我々にできることは己を支配するものへの警戒であり他国の「民主主義の敵」に対する警戒または攻撃は国民国家体制下の世界秩序の上では無意味であるか否かは結論できないが少なくとも無効である。

本稿冒頭において一次大戦後のドイツに触れたのはその良いモデルであるからだ。確かにヨーロッパの国民国家としてのあり方と日本のそれとではその歴史に大きな隔たりがありラーテナウのような思考が日本に生まれるにはその成立からして無理がある。
また、日本は当時ドイツが突きつけられたような苛烈な条約を強要されたわけでもない、どころか周辺諸外国からは賠償を免責されており連合諸国の積極的支援を受けている立場である。しかし国民国家概念の上に安穏として生活しその繁栄を享受する以上ラーテナウの言説の正しさは認めざるをえない。

であれば「一国平和主義」と言う言葉がよく使われるが「一国民主主義」ももはや成り立たない。つまりこれは、敗戦国だから、戦争犯罪を犯した国家だから、と言う枠にもとらわれない事になる。己の民主主義(一国民主主義)を守るために、他国(それが民主主義の敵であるとしても)を攻撃する、と言う行為そのものが己の民主主義をも破壊する事に他ならない。戦争を否定する我々は「一国民主主義」がもはや成り立たない事に気がついたのである。国境がある以上他国の民主化に言及する時、情報戦略、非民主国家人民へ対する民主国家内の全ての情報公開、がこれまでのところ最善の方策である、そのためには国境の内側にいる我々の民主社会こそが真の民主主義国家として成熟しておらねばならないのだ。

がしかしこの戦略も己を安全な位置に置きながら中国人民に多量の血を流させる事になる可能性を否定できない。鉄のカーテンやベルリンの壁の崩壊は一縷の希望を持たせるものであるかもしれないが、現在流されている大量の血は例外ではなかった事を示唆しているようにも見える。イラクで人質に取られた方々の行動は正しかったのだ、イラクの民主化の為にはその支配下へ飛び込むしかない、そして飛び込んでいった彼らの勇気はたたえられるべきものである。

戦争を否定する我々は政治的外交的いかなる制裁処置をも発動する事はできない。だが自衛権の行使は国民国家の体制化にあってはその正当性を免れる事はできないが、それは己の民主主義をも破壊する。
であるからこそ軍備廃棄の正当性はラーテナウの言説によりこそ付与される。
日本の民主主義がそこまで成熟するには100年いや何百年かかるのかはわからない、しかしその事に気がついた私がとるべき行動はハッキリしている(それが如何に非力であったとしても)。

本来民主主義に国境はいらない、が、現実に国境が存在する。となれば民主主義が「民主主義の敵」を倒すにはその敵の支配下においてのみ有効である。
中共が政治的外交的措置としてそれを持ち出したときにはじめて、それを論難する事ができる、しかもあくまでその立場(ラーテナウの言説にある立場)を固守すべきである。その立場を崩そうとする国内勢力にこそ日本の国境の内側にいる民衆は警戒せねばならず、そうではない中共への論難は国境内での「民主主義の敵」を勢いづかせるだけである。

****氏は言う。
> ****

また実証史学を批判して上野千鶴子氏も言う。
---
「自由主義史観」を主張する人々を、「デマゴーク」や「プロバガンディスト」と呼んで、相手にするに足りない、と斥けるのは容易である。だが、その見方の背後で、「真理」に奉仕する学問の「客観性・中立性」の神話が、無傷で保存されるとすれば、その危険もまた指摘しておかなければならない。
---「ナショナリズムとジェンダー」上野千鶴子著、青土社---
としながらも、【わたしの意図も、「自由主義史観」」一派との論争にはない。】と続けている。
#上記文の注釈で上野氏は「日本の戦後史は必ずしも単純な実証主義に還元されない」と説明している。

上野氏の著述は6年前(1998年第一刷)である。「取るに足りない」とした時に誰が取るに足りない教科書が検定を通る、と予想できたであろうか。誰がたった一校でもそれを採用する学校が出てくる、と予想できたであろうか。
そして公教育が「取るに足らない教科書」の全面採用に至った時も、そんなデタラメな教科書を信じる若者などいない、と我々は言うだろう、それこそ取るに足らない教科書なのだから。大戦前の知識人は常にそうして己の良心を欺いてきたのだ。

原爆を作った科学者は言うだろう「こんな馬鹿げた爆弾を使う馬鹿げた国家はいない」と。抑止力の為にこそある、と。そうして己の良心精神性を維持する「確かに私が作ったがその使用には絶対反対である」
アインシュタインは天国で被爆犠牲者に対面しながらもそう思っているだろうか?

私はここでも「悪魔の飽食」森村誠一から引用したい。
---
民主主義というものは、本質的に脆い。それは民主主義に反する主義思想をも体内に抱含する。自分を破壊し、覆そうとする敵対思想をも認めなければ民主主義は存在し得ないところに、この体制の脆さと宿命があるのだ。

民主主義の敵を認めて、ひとたび敵(ファシズム=独裁主義)の天下になれば、ふたたび民主主義を取り戻すために多量の血が流されねばならないことは、歴史の証明するところである。民主主義はその敵に対する絶えざる疑惑と警戒の上に辛うじて維持される。

われわれが「悪魔の飽食」を二度と繰り返さないためにも、民主主義を脅かす恐れのあるものは、どんなささやかな気配といえども見逃してはならない。われわれは民主主義の敵に対して警戒しすぎるということはないのである。そのことをこの実録によって再確認できれば筆者の幸せこれにまさるものはない。
---新版悪魔の飽食、森村誠一著、角川文庫、301P---

となれば、国民国家の国民であることに喘ぎながらも私にはモグラ叩きを続けていくより術はない。見たくない現実(中共のナショナリズム)を見ないのではない、見えている現実に対してできる事をせねばならないのである。
あくなき自由への追求も民主主義に与えられた宿命であり、これこそが見えているのに見たくない、が見なくてはならない現実なのではないか。
私は「お行儀の良い民衆」が【民度(石原慎太郎語録における)】が高いのか否か判定できない、自由である事の真の姿はもっと醜いはずである。程度問題ではあるかもしれないが、お行儀の良い若者を形成する社会には胡散臭さを感じる、戦中日本人民のお行儀は世界一であったであろう。若者のお行儀が悪くある事も自由である事の本質的な姿である。そして大人と喧嘩するのである。

「若者よ、中国過激サポーターに怒れ、そして知れ」
やはりこの主張は取り下げられない。

中共はナショナリズムを否定しながら国民党政権を追い払った。そして今ナショナリズムの発露がある。国民国家体制下のナショナリズムは民主社会の中でこそ培養される、ファシズムはそれを利用したものにすぎない。現に江沢民以前中国人民は大変お行儀がよかった、北朝鮮人民もまたしかり。天安門事件は例外であるが、彼ら(犠牲者)の行儀の悪さは民主化の名の下にあるから、レジスタンスの行儀の悪さは自由の名の下にあるから、許されるのであろうか。ナショナリズムの発露を民主化の兆候と見ることはそう大きく答えをはずしていまい。

さて、と言う事で(^^ゞ
****さん、いつも的確なご批判をありがとうございます。おかげで私の議論の論点のいくつかを整理する事ができましたm(__)m
結局私の議論はナショナリズムをどう扱えばよいのか?に収斂されるような気がします。結論から言えば私の思想はいわゆるアナーキズムに近いかもしれませんのであらゆるナショナリズムを否定的に捕らえていますし悲観主義であるかもしれません。が、しかし現実は現実として捉えられるべきで「国民国家」なるものがその理想的姿としてどうあるべきか、の立場から整理してみました。
以下に論点の抽出を試みますが、これ以外にも 先の[1351]における とほほの議論 が論点とすべきもの又は批判されるべきものがありましたら、ご教授いただければ幸いです
コメントは思考錯誤まで
09:29, Tuesday, Sep 11, 2007 ¦ 固定リンク ¦ トラックバック(2) ¦ 携帯

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