Re^2:野田氏の手紙 9聯隊の行動
ja2047さん:> >入城後1ヶ月でいったい誰を斬ったのだ、ということになります。 >16師団全体が一月二十日過ぎまで南京に留まっていると思ったのですが、野田氏が別の戦線に回っていたということは、なかったですよね。
聯隊ごとに、時系列でその行動を調べる必要を感じていますが、これは大変な作業になりそうです。 とりあえず、9聯隊について、今すぐに分かる範囲で調べてみました。
第9聯隊第1大隊は城外に留まりましたが、第2、3大隊は20聯隊と共に13日未明に南京城内へ入ったとのことです。(そこで、12日の取材時と「南京入城」に時間差があまりなく、数字はそのままで「南京入城まで百五斬つた」ことになるようです。) 12月17日から月末までの行動は、手元の資料では分かりません。 第9聯隊は、12月末に湯水鎮へ移動し、そこに約1ヶ月いたと思われます。歌を作っている時間などを考えると、手紙は湯水鎮から出した可能性が高いですね。 恐らく掲載されなかった手紙の部分から「...野田部隊長は<自慢>の敗残兵掃討に二百五十三人を斬つた...」と、状況を「敗残兵掃討」と明示した記事が書けたのでしょう。「敗残兵掃討」といえば、南京城内外でのことですね。
-- 1937年12月の9聯隊の行動 --
*「歩9」は9聯隊のこと。同じく16師団19旅団下にある20聯隊と同じ地区で行動をすることが多い。 *野田、向井氏は第3大隊、六車氏は第1大隊所属。
12/13 歩9・第2、第3大隊、歩20・第1、第2大隊、中山門近くの城壁の破壊地点から、南京入城。歩9は城内鉄道の東側、歩20は西側の掃討を担当。歩9第1大隊、紫金山南麓の掃討を担当。[『南京戦史』p.166] *「証言による『南京戦史』(8)」p.5 では、「歩兵第九聯隊は、師団命令により城内には進入せず、紫金山一帯の敗残兵の掃討に任じ、15日に入城して国民政府跡付近に宿営した。」とあるが、第1大隊についての記述と思われる。
12/13 午前10時頃、歩9・第1大隊、明孝陵を占領、遺族学校西方に終結。19旅団直轄となる。午後2時より紫金山連峯以南本道(湯水鎮−中山門道)以北の掃討。[『南京戦史』p.168]
12/14 未明より、城内外を南北に分けて掃討。歩9・第2、第3大隊は南部を担当。歩9・第2、第3大隊は13、14の両日ほとんど銃火を交えることなく掃討を終えた。[『南京戦史』p.166]
12/14? 歩9・第2大隊は鉄道線路に沿う地区を、第3大隊は城壁に沿う地区(富貴山から鶏鳴寺付近一帯)を、それぞれ2回掃討したが、敗残兵はほとんど見かけなかった。[『南京戦史』p.167]
12/15 16師団、入場式に備え、各旅団に城外の掃討を命じた。夜、19旅団掃討を命令。歩9は紫金山南麓一帯、歩20は紫金山東南の平地部を担任。[『南京戦史』p.169]
12/16 歩9・第2、第3大隊を並列して紫金山南麓一帯掃討。[『南京戦史』p.169]
12/17頃 歩9・第1大隊、城内に移駐。[六車政次郎証言「証言による『南京戦史』(8)」p.7]
12/末(24日以降) 歩9は湯水鎮へ移動。 「12月の暮れ近く<移動して>湯水鎮の兵舎で正月を迎えました。[歩9歩兵砲隊衛生兵・竹内五郎証言「証言による『南京戦史』(8)」p.7] 「12月15日頃、市内が平穏になった頃入城しました。聯隊は約一週間城内に駐留したのみで、南京東方の温泉地に約一ヶ月駐留しました。」[<第1大隊>第3中隊・長谷川茂男証言「証言による『南京戦史』(8)」p.7]
*引用中、<>内は引用者が補足した部分。
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