南京の棲霞寺での再現を記録することは日本軍による中国侵略の大虐殺の貴重な史料である
本紙南京7月29日電(記者戴袁支)抗日戦争勝利57周年の前夜、本紙記者が南京理工大学の夏期社会実践グループを連れて南京大虐殺の調査研究する際に、再度南京の棲霞寺を訪問し、日本軍の中国侵略による南京大虐殺の期間にこの寺の情況を記録したいくつかの貴重な史料を発見した。 7月27日午前、記者がこの寺で『棲霞山志』を閲覧した時、この寺の明常和尚の伝記を見た:“(民国)二六年丁丑【ひのとうし:1937年8月18日】八月、日本我国侵略す……霜月に首都は落ち……城が賊に破れし日、放たれし兵は大いに奪い、姦淫 暴虐、10数万人の殺した市民であふれ、秦淮碧水を、赤く染めた……。(明常法)師が目の当たりにした悲しみは大きく、傷ついた心でおびえ緊張した、寂然とその弟子は大衆を見て境内を与えた、棲霞寺に難民所を設け、広い範囲に収容した、集まった者は3万余人……(法)師【僧侶に対する尊称】の正義と勇気により、多くの人がその死に直面してもたじろがない大きな慎み深い力を、垣間見ることができ、弟子でなくとも豊かな慈悲を称賛する。” この寺の祖堂で、記者は更にこの寺の現在の2代目住職である若舜に会った、寂然の生前の肖像は像賛という題【寂然像賛】になっていた「……中陰の大災害【南京事件の期間のことを例えているものと思われる】、(寂然和尚)大きな難問に負けず2万3千人の難民を収容した。帷幄【作戦をたてる場所】の計画は、救済の心堅く。大公【小国の君主:難民キャンプの責任者】は己を捨て、全く人を分け隔てすることはなかった……」 今春、記者が本紙でこの寺に関する南京大虐殺の史料を発見したことを報道した際(3月30日の本紙2版を参照)、かつてこの寺の一枚の割れた碑を公表した 「(寂然)上人は、大本、志開の2人の法師の提案と助力により、仏教難民収容所を本寺に設けた。老いて衰弱した婦人と子供と救われた者は2万3千余人、日に2回の食事を与えること、4ヶ月を超えた」と記載されている。 7月28日、記者は鎮江に行きかつて棲霞寺の律学院の仕事をしていた86歳になる老人の朱志舜に会った。彼の記憶によると、彼は長江の北から避難して帰るときに棲霞寺に行った際に、酒に酔った日本軍の兵士がこの寺の倉庫で暴れたり騒いだりして、「美しい娘」を要求し、そして銃で子供を打ち殺した。朱志舜の記憶は、1938年2月3日にデンマーク人のシンバーグが送った棲霞寺難民の手紙の中の、中国を侵略した日本軍が1938年1月15日にこの寺での暴行を記載した部分について証明している。 今回記者は更なる発見をした、南京陥落後に、日本の商人は不法に棲霞山のタングステン鉱山の盗掘を企てたので、明常和尚の固い許否と激しい非難に遭った『民国二八年己卯【きっぽう:1939年2月11日】……師が住職を受け継いだ時、東南の半分は、全て相手に落ちていた。寺はこの少しの間しんとして停止していたので、おびただしい人数が、強盗を見くびって支持した……日本の商人は棲霞山のタングステン鉱山に分不相応のことを希望することができたのは、脅しと利で人を釣り、師に迫って調印して、借りて掘ったのである。師が固く拒んで言った日:「山林河川の利益は、国に有る権利であると、法に明文がある。今、我政府は西に移っており、僧は出しゃばる権力は何があろうか?まして我地は滅亡し、君などは、ほしいままに要求することができる、どうして私の手を借りなければならない、しかる後に合法だと語り始めるのか?」協議は不成立となり、敵の法律で逮捕され牢獄に入れられた、師の大義はみなぎっている;敵は見かけ倒しであり、結局は未解決のまま棚上げにした。』 『棲霞山志』の記載によれば、明常法師は、本名は心鑑、字(あざな)は明祥【かつての中国では自分と同等または目上の人の実名(=諱hui4)をそのまま書いたり口にしたりするのは失礼なこととされ、そのために、他人が自分を呼ぶときの名、すなわち字(あざな)が用意されていました。】。1898年の春に、江蘇省如皐市柴湾鎮でうまれた、出家前の姓は陶といい、名家のようである。10歳で出家して、22歳に宝華山で僧侶となる修行を終えた【宝華山: http://travel.tom.com/china/zhenjiang/you6.htm 】。民国十七年(1928年)、棲霞寺住職の若舜の「聡明な知識を引き出す」時に、心湛(寂然)等の和尚と、同任の監院;大本と志開は明常から学ぶ、寂然の目下の人である。棲霞寺で、記者はまた明常の生前の肖像を見た。 『棲霞山志』は20世紀の60年代に香港で編纂して出版した、割れた碑は新中国で建国前の寂然和尚の存在が埋もれてしまう程度の記念である、『寂然像賛』が作られたのは民国庚辰【かのえ・たつ】(1940年)仲夏【陰暦の5月】である。棲霞寺事務所の2人の先生の話では、以上の史料は今だに報道されていない。 本紙は「初の陥落した南京棲霞に2箇所あった万人以上の難民キャンプ」の研究報道について、すでに国内外の注目を集めた。聞くところによると、8月16日、日本の『銘心会』の南京第17回の訪中団と日本の日中友好の希望の翼の訪中団も、この寺の考察に来るそうだ。 中国青年報 2002年7月30日
|