杉山平助「支那と支那人と日本」
このところ多忙につきネットの方は「お休み」していますが、興味深い情報をいただきましたので、少しだけ登場します。
さて、杉山平助氏には、昭和13年5月13日発行の、「支那と支那人と日本」という著作があります。
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私の上海滞在の期間は短かつたけれど、その間に、国際情勢の油断すべからざることは直感した。そして、我々の生活は、根本から建て直さなければならない、といふ決意をもつて、私は日本へ帰つてきたのである。
帰つてみれば、郊外の私の家の、庭の枯れた芝生には、うららかに陽が照つてゐる。フリージヤは静かに匂つてゐる。ピアノの音も、どこからか聞こえて来る。何といふ平和さであらう!
しかし、私は、もうこの平和さを信ずることは出来ない。南京の印象は、あまりに強烈だ。私の心はレストレスである。不安である。
私は、この不安を人々の心につたへ、彼等の決意を呼び醒まさなければならない。戦争が好ましいか好ましからざるかは別の問題だ。ひとたび戦争をはじめた以上は、絶対に負けてはならない。そしてそれは、指の一本も動かすことなくして、出来ることではないことが、私にはハツキリと分つたのだ。(P6)
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このあたりが、菊地氏の引用した部分とダブるようです。この文章を見る限りでは、杉山氏は、南京において、「敗戦国としての悲劇」を目撃し、戦争には「絶対に負けてはならない」と認識しているように見えます。一体氏は、南京で何を見たのでしょうか。
氏は、12月27日に上海を出発し、同日夕刻南京に到着、そのまま31日まで滞在していたようです。後にその記録が出てきますが、肝心なところは・・・
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五時、朝日新聞社の南京支局へ到着。
同人十数人、水道も出なければ電燈もつかない中に、えらい混雑である。編集局のソファーにいち早く、私は眼をつけて、そこを自分の寝床として占拠してしまつた。
南京はまる一日見物しただけで、出来るだけ早く、私は上海に引き返すつもりであつた。しかし揚子江を下航する船に故障が生じたりして、南京を出発したのは、三十一日の朝になつてしまつた。
その間の見聞を、詳細に記述することは、私には、現在は出来ないことなのである。ただ私は、私の感想を書いて、そのブランクをうづめる。(P356〜P357)
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「詳細に記述すること」は「出来ない」のだそうです。その後にも、具体的な話は出てきません。しかし、次の文章が、杉山氏の見たことを暗示しているのかもしれません。
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夜になると、若い従軍記者が、ランプのまはりで、いつか議論に熱中していゐる。
テーブルの上に鳩が歩いてまわつてゐる。
外は暗闇だ。そして、避難民がまはりにいつぱい住んでゐるのである。死骸はまだ、いたるところに転がつてゐる。
戦争と、人道について議論がはづんだ。
戦争がはじまつた以上、勝利のためには、そしてその戦果を確保するためには、何をやつたつて構はん、この場合一切の道徳律は無力であり、無能であると、私は論じた。今度の戦争では、戦闘員と非戦闘員の区別などは、厳密な意味ではあり得ないのである。てつとり早い殲滅は一種の慈悲ですらあり得やう。(P364〜P365)
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微妙な表現で、確実なところは言えません。とりあえず「解釈」は、読む方にお任せしましょう。
*私は「南京大残虐事件資料集」の方を買いましたので、この「附録」は知りませんでした。「揚子江艦隊従軍記」は、タッチの差で入手しそこないましたので、「東京朝日新聞」、または「従軍記」をお持ちの方、情報を提供いただけますと嬉しく思います。
**杉山氏は、この本で、カルチャーが違いすぎるので、日本人は「支那人」と結婚すべきではない、という持論を延々と展開しています。読み方によっては「人種差別」ですが、このあたり、当時の考え方がわかって、実に面白い。要するに、「支那人」の女性には日本の女性のような奥ゆかしさがなく、男性に気はつかわないわ、わがままだわ、結婚したら絶対不幸になるぞ、ということであるようです。杉山氏が現代の日本女性を見たら、何と言うか・・・。
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