「新申報」についての情報
そういえば以前、渡辺さんが「新申報」についての情報を求めていらっしゃいました。
今日たまたま読んでいた、昭和16年発行、馬渕逸雄著「報道戦線」に、「新申報」についての記述がありましたので、紹介します。
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事変勃発当初上海には大小三十近い華字紙があつて猛烈な抗日態度を示し、十数の外字紙も亦日本に反抗を続け、上海以外の各地の新聞悉く抗日であつた。之に対し日本側では僅かにローカルの三紙があつたのみで、而も之等は敵の爆弾によつて工場が潰滅せられ謄写版でニュースを配給するに止まると云ふ有様で、新聞による宣伝は全く歯が立たない実情であつた。
口では日本帝国の真意を支那人に闡明すると云つても、日本の考へを支那人に知らせる手段なく、戦闘には勝ちながら敵側の戦勝デマを拱手して見て居なければならないといふ有様で、華字によつて支那人に呼びかけるべく、日本側によつて華字紙を発行するといふ事が絶対に必要であつた。
事変前「上海日日」は夕刊として華字版を出して居たが、事変勃発と共に発行を停止して居たので、軍報道部は其の工場並びに発行権を買収して新たに華字紙を発行する事にした。そして租界の一流紙「新聞報」と「申報」を兼称せしむる意味で「新申報」と名づけ、堂脇少佐、金子少佐が苦心の末、程克 初め有力な支那人を集め、論説委員として日高、山本氏等を招き、昭和十二年十月一日創刊した。
日本人の出した新聞を抗日意識に燃えた支那人が読む筈がないので、当初は全然その記述も体裁も支那人発行のものとして出し、南京、蘇州、上海等の要人に郵送したのであるが「斯の如き非愛国の文字を見るに忍びず」とて酷評を朱書して返送して来るものもあり、上海租界では売子が迫害せられ、売ることが出来なかつた。そこで飛行機によつて支那の戦線に撒布し、抗日支那将兵に日本のニュースを読ませることにした。
赤松克麿君、高谷覚蔵君が報道部の応援に来て、力瘤をこの「新申報」の論説に入れて呉れ、申城、浥(パソコンで出ないので一番近い字)城の筆名によつて大いに論陣を張つたものだ。
同文書院の久重福三郎教授は学生を激励するため自ら応召を志願し、一軍曹として柳川兵団の杭州湾上陸作戦に参加したのであるが、其の適材なるを惜しみ、杭州攻略の後軍報道部に配属を受け「新申報」に其の特有の技能を発揮せしめる様にし、高谷覚蔵君が社長、久重君が副社長と云ふ格で「新申報」の発展に努力した。次いで亀山嘱託も報道部に入り、専ら「新申報」の経営、紙面の充実に盡力した。
(「報道戦線」P223〜P224)
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これでやっと、「新申報」と題する章の6ページのうち2ページ。書き写すのに疲れましたし、以下もずっとこんな調子ですので、とりあえずここまでにします。
*例によって、旧字は新字に改め (そうしないととても書写できない(^^; )、また読みやすくするため随時改行を入れています。
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