田岡良一氏の「戦数論」について−8
8 著者(田岡氏)の見解 −−− 八
前に第六項に述べた様に、戦争法規を作るに当つて交戦國の軍事的必要は常に顧慮せられ、交戦者に或る行爲を命ずることが、彼の軍事的利益を害せずと認められる時、又はたとへ害することは豫測せられても、害される軍事的利益は重大ではなく、軍事的利益の犠牲によつて救はるべき人道的利益は比を失して重大であると認められる時、交戦者に此の行爲を命ずる法規が作られるのであるが、併し此の場合に顧慮せられる軍事的必要.は、戦時に《通常》発生すべき事態に於ける軍事的必要である。法規制定者は、通常発生する事態を念頭に置いて、此の事態の下に於ける軍【126】事的必要の性質及び程度を考慮し、之と人道的要求との調和を計るのである。其の結果として表面上或る法規の妥当すべきが如く見える場含であつて、而も此の法規の制定者が豫見した軍事的必要と人道的要求との均衡は保たれ得ず、より強い軍事的必要が支配すると言ふ特別の場含は生ぜざるを得ない。 例へば武器を捨てて降を乞ふ者を攻撃せず自軍に収容して保護することは、通常の場含には軍の安全及び軍事行動の成功を害する虞はないであらう。しかし我が軍の迅速な移動作戦が必要な場含、又は我が軍の食糧が欠乏して居る場合に、投降者を収容することは、軍事行動の成功を害し、又は軍の安全を害する場合があるであらう。睦戦條規第二十三條(ニ)號「助命せざるの宣言の禁止」は通常の事態を念頭に置いて作られた規定である。文言の表面上、此の規定は総ての場合に於ける投降者に適用せらるべきものの如く見えるが、此の法規の根抵に横はる人道的要求と軍事的必要との均衡に鑑みる時、此の法規の妥当しない例外の場含は生ぜざるを得ないのである。 又爆発性又は燃焼性の物質を以つて充填せる弾丸にして四〇〇瓦以下のものの使用を禁止する聖ピドタースブルグ宣言は、制定者の意圖に於いては、陸戦のみならず総ての戦闘に適用せらる【127】べきものとして作られたのであるが、此の宣言の禁止する所が四〇〇瓦以下の弾丸即ち小銃弾に止り、四〇〇瓦以上の投射物即ち砲弾、爆弾、手榴弾に及ばないのは、後者が多数の敵兵を一時に斃し又建造物工作物の破壊に用ひられ、其の軍事的有効性大なるに反し、前者即ち小銃弾の効果は其の命中せる個人の戦闘能力を喪はしめるに止るが故に、特に此の種の惨酷なる弾丸を用ひずとも、普通の銃弾を以つて略々同一の効果を挙げ得ると考へられたからである。然るに飛行機が敵飛行船又は軍用氣球を攻撃する場合には、普通の弾丸は殆んど効果なく、燃焼性のものを用ひて氣嚢を爆発せしめることが必要となる。而して軍用飛行機は通例大口径の砲熕を搭載せず、又し得ず、其の空中戦闘の武器は機関銃又は小銃である。從つて世界大戦の後半交戦國の航空機は皆燃焼性の機関銃弾を使用した。聖ピータースブルグ宜言の制定者は、当時豫見し得べき通常の場含、即ち人體に命中せしめて其の個人の戦闘能力を奪ふ場含に於ける此の種の弾丸の軍事的有効性を念頭に置いて、人道的利益と軍事的必要との釣合を衡量したのであるが、当面の場含には宜言の豫見した両者の釣合は破られて、後者のみが比を失して重大となつた。從つて世界大戦中の交戦國の実行は達法に非すと見做され、大戦後一九二三年の空戦法規も其の第十八條に、聖【128】ピータースブルグ宣言は航空機間の戦闘に適用なきことを規定する(二九)。 又都市の攻圍の場含、砲撃を開始するに先立つて都市の老幼婦女子を避難せしめる爲に豫告する義務を砲撃者に課する陸戦條規第二十六條は、「強襲の場含」即ち歩兵の突撃を以つて都市を略取する軍事行動の掩護としてなされる砲襲の場含に除外例を認め、豫告義務を面ずるが、其れ以外に除外例を認めて居ない。強襲の場合に除外例を認めた所以は、攻圍の場合に於ける砲撃は、歩兵部隊の進撃の掩護として爲されることが多く、從つて砲撃の豫告を受けた敵軍は、歩兵部隊の進撃のあることを豫期して之を反撃する準傭を整へるであらうから、強襲の企圖ある砲撃を豫告することは、此の軍事行動の成功を妨げるに因る。之に反してかゝる企圖なく、単に都市から遼隔の地に放列を敷いて都市を砲撃すること自身は、豫告によつて危険を生じないと見做され、非戦闘員避難の人道的要求を容れて、豫告の義務を設けたのである。併し豫告が重大な軍事的不利益を齎すことは、只張襲の場含に限るであらうか。例へば潰走せる敵軍が都市に遁入し、此処に據つて兵を纒め、再び隊伍を整へて逆襲に出る危険のある場合、之に加へる砲撃は、非戦闘員避難の爲の猶豫期聞によつて遷延せしめられることを許さない(三〇)。強襲の場含と同様に、此【129】の場合も亦豫告は重大な軍事的不利益を齎さすに措かない。前の場合には、我が軍の探らんとする作戦行動を敵に暗示する結果を生ずるが故に、後の場含には、非戦闘員避難の爲の時間−−此の時間を與へずしては豫告は無意味である−−が敵に軍事上の利益を與へるが故に。故に陸戦條規第二十六條の根柢をなす軍事的必要と人道的要求との釣合に鑑みる時、後の場合にも砲撃者は豫告の義務を免ぜられると結論しなければならないのである(三一)。 此の種の例は蓋し枚挙の暇がない。何人も知る糠に、《凡そ法規は、其の文言の通常の意義が及ぶ範圍に完全に妥當するものではなく、妥当の範圍は其の法規の存在理由に照らして、一定の限界を持つ。戦争法規も亦其の存在理由に照らして一定の限界があることは言ふまでもなく、如何なる場含に法規が妥当性を失ふかは、各個の戦争法規の解釋の問題として、研究さるべき事柄である、此の研究は畢竟平時法と戦争法と通じて國際法学者の任務である所の、法規の存在理由を究め、之に基いて法規の擴充の限界を定めることに外ならない》。 然るに戦争法規は軍事的必要と人道的要求との一定の釣合の上に成立するものであるから、戦争法規について、法規存在の理由に鑑みて法規が妥当しない場含と言ふのは、畢竟此の均衡が破【130】られ、軍事的必要が他の要素に優越する場合である。リューダー其の他の戦数肯定論者が「戦争法規は通常の場合には遵奉せられ得、又せられねばならぬものであるけれども、特に強い軍事的必要が生じた場合には、此の軍事的必要は法規に優先する」と言ふのが、若し上述の事理を表現しようとするものであるならば、彼等の考は根柢に於いて誤つたものではないと言はねば広らぬ。然し彼等は其の説の支持点を緊急権の理論に求めようとした所に、基礎の選擇を誤つたのであつて、第六項に述べた様に、緊急権の観念は戦争法の中に豫め含まれて居るものであり、此の法を更に緊急権に基いて侵犯することを許さんとするのは理論的誤謬であるばかりでなく、斯かる基礎が採られた結果、「如何なる場合に強き軍事的必要に基き交戦者が戦争法規の拘束から解かれるかは、個々の法規の解釋の間題である」とは説かれずして、「一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる」と言ふ概括的な漠然たる立言がなされた。軍事的必要によつて戦争法が妥当しない場合は、一つ一つの法規に就いて、法規解釋の問題として研究せられ、確定られねばならぬ事柄に属するのである。 戦数否定論者は、恐らく右の如き、誤つて基礎づけられ、誤つて表現せられた戦数肯定論に反【131】對して立つたものであつて、戦争法規の解釋の問題として、強き軍事的必要が法規の妥当性を失はしめる場合の生ずることをも否定しようとしたものでないことは、彼等の戦争法の著述を通じて、各法規に對する彼等の把握を覗ひ知る時は明かとなる。從つて彼等の内心懐抱する観念は本來正しいのであるが、彼等が之を表現するに当つて「総て戦争法規は、法規自身が明示的に之を許す場合の外、軍事的必要によつて破られ得ない絶對的効力を持つ」と唱へた時に誤りを生じた。法規が「軍事的必要約款」を含まない場合にも、軍事的必要によつて妥当しない場含は多く、彼等の戦争法の著述白身も此の事を證明する。彼等は一般論としての戦数肯定諭に對立して、一般論としての戦数否定諭を唱へたのであるが、後者も亦誤れる点に於いて前者と異らない。斯くの如き形に於いて表現せられた戦数否定論が反對論者を信服せしめ得ないのは当然である。 《恐らく両論者が、戦争法と軍事的必要との関係、後者が前者の効力に及ぼす影響について、心中に抱く観念は同一であつて、唯之を学説として述べるに当り、雙方の不用意な基礎づけ方と不用意な表現とか、両論者の説を外観上霄壤の距りあるものと化したのではなからうか》。そして両論者各々相手方の説を観察するに当つては、表面に現はれた其の弱点を攻撃し、自説に就いては、【132】外部に表現せられた形に於ける其の弱点を深く顧慮せずして、内心に抱く観念の正しきを信じ−−而して真に正しきが故に−−両々相譲らないのではなからうか。國際法学の論争の内、実定法規の解釋に関するものは別として、平時法又は戦争法の基本間題と稱せられる抽象的な諸問題に就いて、同等の價値ある学者が二派に分れて對立して相譲らす、果しなく永續する諭争には、斯かる性質のものが少くないのである。此の種の論争の起因を深く究めて爾者の各々の誤れる所と正しい部分とを明かにして、不必要な争を止揚することが、現代の國際法学の急務である様に思はれる。 從來戦時國際法の著述を書く者は、屡々其の序論的部分に於いて、戦数に関する一勧を設け、肯定説又は否定説を主張した。そして此の場合に、肯定論者は、一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる、と唱え、否定論者は、一般に戦争法規は、軍事的必要約款あるものを除き、軍事的必要によつて破るを許さず、と唱へるのを常とした。併し私の信ずる所によれば、軍事的必要と戦争法の効力との関係に就いて、斯かる概括的一般的な立言をなすことは危険であつて、問題は個々の戦争法規の解釋に移されねばならぬ。曾つて著はした戦争法の綜合的著述に、私は【133】序論的部分に於いて一般諭として戦数を説かずして、個々の法規に就いて軍事的必要によつて破られる場合を、法規の存在理由と對照しつゝ説明する方針を採つた。斯く普通の體系と異る方針を採つた所以を、其の著書中に説明する餘裕がなかつた爲に省略したが、講壇に於いては数年來説き來つたことであつて、今囘機會を得て、愚稿を公けにすることにしたのである。
註 (二九)拙著國際法大綱、下巻二二O−二二二頁。 (三〇)Despagnet et de Boeck, Cours de droit international public 一九一〇年、五三〇齣(八四八頁) (三一)拙著、空襲と國際法、二八六頁以下。 −−−
田岡は諸説の誤りの結論的原因として「彼等は其の説の支持点を緊急権の理論に求めようとした所に、基礎の選擇を誤つたのであつて、第六項に述べた様に、緊急権の観念は戦争法の中に豫め含まれて居るものであり、此の法を更に緊急権に基いて侵犯することを許さんとするのは理論的誤謬であるばかりでなく、斯かる基礎が採られた結果、「如何なる場合に強き軍事的必要に基き交戦者が戦争法規の拘束から解かれるかは、個々の法規の解釋の間題である」とは説かれずして、「一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる」と言ふ概括的な漠然たる立言がなされた」為である、と述べる。しかしながら、田岡は「彼等の考は根柢に於いて誤つたものではない」とも言う。
もちろんこれは上述引用で明確なように、肯定論の理論的根拠乃至は反対論者が反対する肯定論の理論的根拠、或いは中間説が正当化されるものとして分けた「緊急権の理論に求めようとした所」が誤りなのであって、「法を逸脱出来る場合がある」という事自体は否定されていないというわけである。それを確認した上で田岡は「軍事的必要によつて戦争法が妥当しない場合は、一つ一つの法規に就いて、法規解釋の問題として研究せられ、確定られねばならぬ事柄に属する」とするのである。
田岡は、戦数が孕む問題について「一般的な立言をする」こと自体が危険だという。このような判断からは、戦数は一般に肯定するべきでもなく、また一般に否定すべきでもない、ということになるであろう。要するに「戦数は否定されている」乃至は「戦数は否定されていない」と軽々に言うべきではない、ということであろう。田岡の言うように、確かに個々の法規を文字通りの遵守することが無理なケースはあることは認めざるを得ないが、だからといってそうした状況を概括して「戦数は認められている」、などと言うべきではなく、個々の法規の解釈上の問題として考えなければならないわけである。
しかし敢えて私見を披露すれば、この考え方も些か危険であるように思われる。何故なら、個々の法規の解釈として、戦数があり得るというのであっても、これも場合によっては軍事的必要に対して都合の良い解釈を与え、戦争法の有効性を低下させ得る懸念があるからである。実際、現代に於いてもそうした解釈を巡る議論が絶えないことは例を挙げるまでもない。
そもそも戦争は、当事国が正当化の上に行うものであり、本来的に解釈上で正当化が議論されることが本質的な問題なのであって、戦数の問題の本質もここにあったはずである。具体的に法規を適用する段になって、田岡のような議論があり得ることは認めざるを得ないとしても、人道上の配慮という戦争法を構成する重要な要素を見過ごすことはあり得るべきではないと思うし、こうした観念は過去リューダーに至るまで共有されているように思う。それ故、論理の必然として誤っているにせよ、「緊急時に限っては」などと制限を加えた上で、戦争法の持つ本質的効果を損なわないよう配慮した議論を行うわけである。
以上、田岡良一氏の『戦争法の基本問題』の「戦数論」に対する論考を終わる。
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