田岡良一氏の「戦数論」について−5
5 中間説の誤り −−− 五
右の三つの学説の内最後のもの、即ち戦数を否定しながら、緊急権による戦争法よりの離脱を是認する説は、最も論理を貫かないものの様に思はれる。此の説を探る学者は、國家が共の生存を危くされる場合、又は國家が其の生存及び発展の能力を害せられる場含、戦争法の拘束から免れることは許されるが、単に戦勝を獲、敗衂を免れんが爲に、戦争法の拘束から免れんとすることは許されない、と説くのである。併し國家は戦争状態に入ること夫れ自身によつて一種の緊急状態に陥るのであり、敵國を克服するに非ざれば、自國の生存又は発展を危くさるべき危険に身を曝すのである。從つて交戦國が其の存在又は発展を危くされる時戦争法の拘束から解かれると言ふ説は、敵國に勝つ爲に絶對必要なる場合には、戦争法を離れて行動することを得ると言ふ説と、同一の結果に至らざるを得ない。【116】 尤も一戦争に破れることが、國家の生存又は発展の能力に影響を及ぼさない場含もあり得るであらう。しかし夫れは戦争の結末を俟つて始めて知り得ることであり、戦争の進行中に何人も斯かることを豫断出來ない。而して交戦國の政治家又は司令官が、戦争法を遵守して戦争の遂行を進むべきか否かを決断せねばならぬのは、戦争の途中に於いてである。此の時彼等は、戦敗が齎らす最悪の事態を顧慮しなげればならぬ。又たとへ敵國が弱小國であつて戦敗は憂ふるに足らずとも、戦勝の遅延が誘致する第三國の干渉が齎らすべき最悪の事態を顧慮しなければならぬ。從つて若し國家の安全又は発展が脅かされる場合に戦争法の拘束から免れるごとが許され得るものとせば、外國に向つて戦端を開いた國家は、速かに勝利を収める爲に戦争法の拘束から免れて行動するに至るのは当然である。 或は反對諭者は、其の説が、戦争全體を勝利に導く爲に必要なる場合戦争法からの離脱を許す結果に導くとも、個々の戦闘に於いて勝利を獲る爲に必要なる場合に、軍隊の指揮官が戦争法規を無視して行動することを許す結果には導かないと考へて、其の説が戦数肯定説とは異ることを主張するかも知れない。併し戦争全體の勝利は個々の戦闘に於ける勝利の集積に依つて獲られる。【117】たとへ個々の戦闘に於ける敗北が、全體の勝敗に影響しない例外的事態はあり得るとしても、或る戦闘が之に該当するか否かは戦争の決を俟つて始めて知り得ることであり、現に戦闘に從事しつゝある軍人に何人かかゝる判断を期待することが出來よう。彼等が、此の戦闘は右の如き例外的の場含に非ずして、原則的の場含、即ち其の勝敗が全體の戦局に影響し、從つて國家の安危を左右する戦闘であると信じて行動するのは当然である。 故に戦術又は戦略上の必要に基く戦争法侵犯を否定しながら、國家の生存又は発展の必要に基く戦争法達反を是認せんとする説は矛盾であり、此の矛盾は、一旦剣を抜いて立つた者は其の一身の安危を勝利に賭けて居る事実を考慮しない爲に生じたものである。 −−−
無論田岡氏の言うように、中間説では実際的には極端に戦数を認める口実を与えてしまうこととなるであろうことは論を待たない。その理由は田岡氏が示すとおりであり、付け加えることはない。
ただ実際上、本音と建て前という問題はあるにせよ、戦争に於いて違法行為(と判断せざるを得ないような行為)が絶えないのは、中間説が事実上表明したとおりであろうと思う。「一旦剣を抜いて立つた者は其の一身の安危を勝利に賭けて居る」という、要するに「命がけ」がそれら違法行為の口実でさえあり得てしまうのではあるまいか。余談ながら、戦争という極めて特殊な状況が、法により制限されるという自体、偽善的であるとさえ思われる。反面、この偽善を修復させることが出来ないというジレンマを持つのも人類の大きな問題である。 <次項に続く>
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