田岡良一氏の「戦数論」について−3
3 戦数反対論 −−− 三
右の戦数の理論に對して反對論を詳しく述べた者の嚆矢は英國のウェストレーキであらうと思はれる。 リューダーがホルツェンドルフの國際法ハンドブーフの第四巻に戦争法概論を書き、其の中に戦数の理論を説いた五年後に、ウェストレーキは「國際法の原理に関する数章」と題する書を著はし、其の中にリューダーの説を精密に譯出して、之に對する反對意見を述べた(八)。又同一の見解は、彼の國際法教科書の中にも、簡単ではあるが説かれて居る(九)。ウェストレーキの説は、我か國に於いて高橋博士の「戦時國際法要論」の中に比較的詳しく紹介されて居るから、此処に省くこととする(一〇)。 オッペンハイムも亦戦敷の反對者として著名である(一一)。其の國際法教科書の第二巻戦時の部に、戦争法の起源を説くに当り、戦争法は始め usages, manners of warfare(戦時の慣行、戦争の習はし)として発生し、次第に慣習及び條約によつて法規となつたものである、と説き、【107】独逸語に言ふ Kriegsmanier も右の manners of warfare と同義語であるとする(六七齣)。次に、戦争法の拘束カを説くに当り、 「独逸の法諺 Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier は、戦争方法が未だ慣習法及び國際條約より成る戦争法規によつて規整せられずして、只戦争の習はし(Manier, Brauch)によつてのみ規整せられて居た時代に発生し、認められたものであり、其の言はんとする所は、戦時の必要は、戦争の習はしを破る、と言ふことである。然るに今日戦争方法は最早や習はしによつてのみ規整せられずして、大部分は法規によつて−−國際條約又は一般的慣習によつて承認せられたる確固たる規則によつて−−規整せられる。此等の條約及び慣習上の規則は、自己保存の必要ある場含に適用なきが如く作られて居るものを除き、必要によつて破られ得ない。故に例へば毒を施せる武器及び毒物の使用を禁止し、又敵軍に属する個人を背信的に殺傷することを許さずとする規則は、たとへ之を破ることが重大なる危険を避け又は戦争の目的を達成する結果を齎す場含と難も、拘束力を失はない。海牙陸戦條規の第二十二條は明白に、交戦者が敵を害する手段を選擇する権利は無制限にあらず、と規定する。そして此の規則は必要の場含にも拘束力を失はない。軍事的【108】必要の場含に無視することが許されるのは、戦争法規ではなくして、たゞ戦争の習はしである。Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier, but not vor Kriegsrecht!」(六九齣)。 此のオッペンハイムが独逸の法諺に與へた解釋は、ド・ヴィッシェルの著「戦争法規と必要の理論」の中にも引用せられ、賛意を表せられて居る(一二)。 又類似の説はファンぜロウによつても述べられて居る(一三)。 「Kriegsbrauch, Kriegsmanier とは、成文的戦争法発生以前に於いて、将軍及び軍隊が相互間の武士道的行動の不文法典に自発的に拘束されることを言ふのである(die freiwlligen Bindungen der Heerf<u>hrer und Truppen an einen ungeschriebenen Code des ehrenhaften Veehaltens gegeneinander)。只戦数−−國家又は軍隊が滅亡を免れる爲に総ての手段を盡さざるを得ない急迫状態のみが、Kriegsbrauch の無視を許さるべきものとした。條約的戦争法は、今日尚ほ恒常的行動からの離脱が詐され得ることを指示する場合がある(事情の詐す限り、と言ふ約款の存する場含が之である)。條約に此の指示を欠く時、條約法規の侵犯は戦数によって辯解され得ない。」【109】 オッペンハィムが Kriegsmanier を以つて、戦争法に對立するものとし、法たらざる慣行を意味するものと解するに反して、ファンぜロウは、條約法に對立する不文法典を指すものと解するが、しかし「自発的拘束」といふ言葉を用ひて居る所から察すれば、法的拘束力なき規則と解する点に於いて異らない様である。是等の学者は「戦数は Kriegsmnier に優先す」といふ格言を、其の Kriegsmanier と言ふ語に法たらざる慣行と言ふ意味を付與して、自説と調和せしめようとするのである。此の解釋の下に於いて此の格言は法律上は無意味のものとならねばならぬ。併し之が正しい解釋であるか否かは疑問であらう。少くともリューダー、モイラーの如き十九世紀独逸の戦争法の権威は、Kriegsmanier を斯く解せず、時として Kriegsrecht と Kriegsmanier とを混合的に使用するのである(一四)。 戦数否定説は Rodick の「國際法に於ける必要の理諭」の中にも説かれて居る。此の書は第一章を初期の國際法学説の研究に充て、第二章乃至第五章を平時國際法に於ける必要の理論の研究に、又第六葦以下を戦時國際法上の夫れに充てて居る。後者が戦数に関係するのであるが、其の要旨は次の様である(一五)。 軍事的必要に関して二つの学説がある。第一説によれば、軍事的必要によつて戦争法規を破ることが許されるのは、法規自身が豫めこれについて明示的許容を與へて居る場合に限られる。此の説は大體英米の学者の採る所である。第二説は Kriegsraison geht vor Kriegsmanier といふ格言によつて表現される。此の説が最も廣く流布して居るのは独逸であり、其の言はんとする所は、戦争法規は通常の場合尊重せらるるを要するとは言へ、戦争法規が國家の終局的安全に對して制限を加へるごとは許さるべきでなく、從つて死活的必要の事態は法規の侵犯を正当化する、と一言ふに在る様である(五九頁)。 此の二つの見解の内、著者は第一のもの、即ち必要の理論は、法規が之を用ふることの許容を豫め與へた場含に限られねばならぬと言ふ見解を、唯一の法律的正当なものとして賛成する。第二説は海牙陸戦條規の文字及び精榊に反する。此の條規を附属書とする條約の前文に、此の條規の各條は「締約國の所見によれば、軍事上の必要の許す限り戦争の惨害を軽減せんとするの希望によつて」制定されたものであることが述べられて在る。此の言葉を、此の條規の若千の規則が軍事的必要ある場令適用なしとの條項によつて現に制限されて居る事実と併せ考へるとき、又更【111】に海牙條規第二十二條が「敵を害する手段を選擇する交戦者の権利は無制限に非ず」と明言し、面して此の規則は必要の場含にも拘束を夫はないと言ふ事実をも考へる時は、海牙條規の制定者が必要の含法的行使(緊急権の合法的行使)を、法規が其の使用につき明示的許可を與へる場含に限らうとしたと言ふ結論に達することは疑ひを容れない様に思はれる(六〇-六一頁)。 続いてロディックは緊急権の合法的行使の爲され得べき場合を、陸戦法及海戦法の各個の法規について説明する(六一-一一八頁)。不思議にも彼の例示の中には、法規が「軍事的必要なき限り」と言ふ明示的條款を含んで居ない場含が往々あつて、上述の一般的立言と矛盾を來すのである。然しこの弊は単にロディックに特有なものではなく、オッペンハイムの書もウェストレーキの書も同様である。後に第七項に於いて此のことは詳しく説明するであらう。
註 (八)Westiake, Chapters on the principles of International Law 一八九四年、二三八−二四四頁。 (九)同氏、國際法、第二巻、第二版、一九二二年、一二六−一二八頁。 (一〇)高橋作衛、前掲、一四一九頁 (一一)Oppenheim 國際法、第二巻。本文に引用せる六七齣、六九齣は、第五版によれば、一八七頁及び一九三−一九四頁。 (一二)De Visscher前掲(註三にあり)、二九−三〇頁。及び三六頁。 (一三)Vanselow V<o>lkerrecht 一九三一年、一七七頁。 (一四)リューダについては、ホルツェンドルフ前掲書(註四にあり)、二五四頁。モイラーについては、前掲書(註五)一五頁以下。 (一五)Rodick, The doctrine of Necessity in International Law 一九二八年、五八頁以下。 −−−
まず、上記引用箇所の冒頭付近で述べられたウェストレーキの諸説については省かれており高橋作衛氏の「戦時国際法要論」にあるとあるが、これは別に紹介しているので参考にされたい(http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/jioqrf/jioqrf.html)。
この省略されたウェストレーキの反対説は、最も明快な論理的反対説となっていると思われるが、その論理的骨子は「肯定論では、必要な場合には戦規を守らなくて良いとするが、そもそも戦争は必要だから行うのであって、そこで行われる軍事行為は必要の程度の差しかなく、このような必要の程度如き漠然な基準では、この肯定論の論理的必然として、絶対に守らなければならないような規則でさえも無視してしまうこととなる」というものである。
オッペンハイムやファンゼロウは特に論理(的必然性上の破綻)としては説かないで、破って良いのは「戦争の習わし」などであり、単に戦規(国際法としての戦争法)は破ってはならない、とだけ説く。ロディックもウェストレーキのような論理上の問題は述べず、ハーグ陸戦条規の精神に反するとして、戦数肯定論に反対する。ただ、ファンゼロウとロディックは、明記された条文の中に軍事的必要条項のある場合に限り戦争法規を破ることが出来る、とする。
しかし、このような戦数反対論者にせよ、個別的条文で軍事的必要条項を含まない場合でも、「緊急権の合法的行使の爲され得べき場合」を論ずるということは注目されるべきである。田岡氏はこれを矛盾と指摘するのであるが、具体的には後述するとして、彼等反対論者が何に反対しているかを鑑みると、私にはこれは矛盾ではないように感じられる。
<次項に続く>
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