ベイツ=「国民党顧問」説
ベイツ絡みの話題を、もう一つ。
ベイツは「国民党顧問」―最近、掲示板の流行です。
一応これは、東中野氏の「功績」ということになっているようですね。『南京「虐殺」研究の最前線 平成十五年度版』では、次のような記述が見られます。
>しかもベイツは中華民国政府の「顧問」であったことも判明した。又、フィッチの夫人は蒋介石の夫人と「親友」であったことも分った。(同書P260)
あっさりしたものです。こんなわかりきったこと、いちいち説明する必要もないだろう、と言わんばかりです。
さて、この根拠は何か、とこの本を見ていきますと、このような「注」があります。
(5)Esther Tappert Moetensen Papers, Record Group No21, Box7, Folder 120, Yale Divinity School Library, New Haven, Connecticut.
よくわからないが、何やらもっともらしい。さぞかし、しっかりした根拠に基づいてこの記述を行っているんだろうな・・・と、ほとんどの方が錯覚すると思います。
さて、この本では省略されていますが、この「根拠」は、次のようなものであったようです。
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「南京大学教授ベイツの”化けの皮”」
そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになった。
それを証明したのが、イエール大学で私が発見した小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明は次のようになっている。
「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、それに怯むことなく、オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」
私たちが新聞の切り抜きをする際、しばしば購読紙名をいちいち書かないのと同じように(「ゆう」注 普通は書くぞ)、この切り抜きにも、何月何日の何新聞か、何も書かれていない。ただ、「日本軍が南京の城門を攻めるなか」とあることから、昭和十二年の十二月十三日の城門陥落前後の記事と判断される。
この紹介記事の中に、ことさら虚偽の履歴が書き込まれるべき強い理由も見当たらないから、ベイツが「中華民国顧問」であったことを疑う理由もないであろう。
(「諸君」2002.4 P154)
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えっ、これだけ? と、読んだ方は驚かれると思います。
氏がたまたま「イエール大学」で見つけた、紙名もわからない、どこの誰が切り抜いたかもわからない「写真説明」に、たまたま「国民党顧問」の肩書きで紹介されていたことだけから、「明らかになった」といきなり断定されても・・・。他に「ベイツ=国民党顧問」説を裏付ける資料が何も存在しない以上、この記事については、記者の誤認、という可能性も当然あるわけですから。
まあ、ひょっとすると、今後研究が進んで、ベイツが「国民党顧問」であったことが「証明」されないとも限りません。しかし少なくとも、これでは「断定」の根拠としては弱い、と見るのが普通でしょう。
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