「支那事変戦跡の栞」上巻 陸軍恤兵部 P66〜P69
〔通州(トウン・チオウ)〕 通州と北京朝陽門の間は、坦々砥の如き良道(三十尺幅の鋪石道)が通じてゐて、一方又大運河の水運を擁し、白河を介して天津にも通航の便がある。昔の通州は中部支那方面の貢糧中継所として、北京の咽喉を扼する要衝であつたのであるが、鐡道開通の結果はその地位を失つたのと、北清事変の際兵燹にかゝつて、今なほ舊態に復しない。通州は今回事変に際して、後で述べるやうないはゆる通州事件の起こつたところで、何人も忘れ得ない恨み多い土地となつた。 城市は明代の初の創建にかゝり、更に清朝に至つて増築したのであるが、城垣も今は廃頽(はいたい)して、満目荒寥たるものがある。城垣には通運、朝天、迎薫、凝翠の四門があつて、流石に各門に通ずる十字街頭に立つてゐる鼓楼の残影には今尚往時の繁栄を語るものがある。八里橋は通州の東北約三哩の地点に在る石橋で、幅約四十八尺長百九十尺「長橋映月」の勝を以て聞えてゐる、通州八景の一つである。
〔通州事件〕 昭和十二年七月二十九日午前三時、冀東防共自治政府所在地通州に、未だかつてなき邦人大虐殺事件が起きたことは誰もが知る通りである。 事件といふのはかうである。長官殷汝耕の直接部下で、彼の最も信頼してゐた保安隊教導総隊が支那軍戦勝のデマを盲信して、二十九軍の敗残兵と共に、約三千名の兵力を以つて突如兵変を起したのである。 当時同地守備の任に当つてゐた我軍は、僅かに数百名の兵力であつたが、よくこれに応戦、急を知つた飛行隊ならびに萱島部隊の救援によつて三十日には敵兵を掃蕩して、市内の治安回復は完了されたのであつた。 しかしこの叛乱事件によつて、同地特務機関は細木機関長を初め、関員は全滅し、守備隊にも戦死十八名、負傷者十九名の損害を蒙つたのであるしかも暴戻なる支那兵は攻撃の目標を主として非戦闘員たる我居留民に置き、言語に絶する暴虐を加へ、その大部分を城門外に拉致して惨殺するなど我が居留民約三百八十名中死を免れ得たものは僅かに百二十余名、しかもその虐殺の前夜における鬼畜にも勝る惨虐(ママ)なる行為は、真に耳目を掩はしめるものがあり、我国民を悲憤せしめたのである。
〔悲惨を極めた特務機関〕 一度、通州特務機関と鮮か(ママ)に書かれた門をくゞると凄惨な籠城のあとに思はず身震ひさせられた。門の入口の部屋にゐた数名の機関員は銃声と共に甲斐少佐の命によつて応接室に駆けつけやうとしたが、庭に出るや否や機関銃の乱射にバタバタと撃ち殪(ママ)され、屍骸は石油で焼かれたとのことである。更に甲斐少佐の居室に入れば少佐が軍刀と拳銃を両手に持ち鉢巻姿のまゝ壮烈な戦死をとげてゐた。 応接室にはどす黒い血痕が飛び散り部屋は根こそぎかきまはされ鬼気人に迫るものがあつた。 その隣の事務室には黒板に書かれた「二十九日午前三時半襲撃さる」の文字も一入悲壮なものを感じさせた。 当時特務機関には四十挺余の拳銃、小銃があつたのだが、これを全部取り出すひまもない程突嗟(ママ)の間に襲撃されたが、関員は沈着よく五千発の銃弾を撃ち尽くしてゐたところを見れば、全く矢尽き刀折れての壮烈な最期であつたのである。 尚通州惨劇の中でも最も悲惨を極めたのは旅館近水楼だつた。 主人夫妻女中六名、それに宿泊客を合せて十余名が或は現場で、或は銃殺場に拉致されて惨殺されてゐた。こゝは女の被害者が多かつただけに、玄関や廊下を距てた三畳の間等には血痕のベットリついた髢が散乱して、一入凄惨な気を興へた。 しかし同地も七月卅(さんじゅう)日、萱島部隊の到着によつて、治安は全く舊に復したのである。
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