>浅海記者も両将校も、元はそんなこと言っても書いてもいないでしょう? というだけのことなんです。
>1.百人切りをした。 ↓ >2.戦闘においてそれをすることは不可能である。 ↓ >3.捕虜を虐殺したからできたのである。
>というルートは1が正であるという仮定のもとでしょう?
上の図式の1.は不適切。「百人切りをした」ではいきなり、白兵戦か、捕虜か、 決定しないまま「百人斬り」という事実があったことを認めれば混乱を招きます。
したがって解釈を交えない事実関係から出発するとすれば「浅海記者らが両少尉が 百人斬り競争をしたと報道した」と書くべきです。
しかも記者たちは、両少尉が伝える「百人斬り競争」の言ったままを記事にした、 と証言しています。向井遺書では「書いてあることに悪いことはないのです」と書 いています。また、別の文では野田少尉が言ったことが記事になった、とも書いて います。野田遺書では向井少尉が言ったことが記事になったと書いています。
百人斬り競争の記事は4回にわたって、光本、浅海、鈴木各記者と佐藤カメラマンの 写真によって書かれています。記者たち(浅海、鈴木)の戦後の証言を読みますと、 百人斬り競争は彼らの側から持ち込んだ話であり、4回にわたって、殺人スコアを彼 らの方から記者を捜しては報告して来ていると言います。
その「競争」のスコアの付け方として、佐藤振寿カメラマンはこう述べています。
−あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、 ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのか よくわからないけれど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、 誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井 少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵 をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。 ――それなら話 はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ。 『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.35
したがって、なにごとか「日本刀」による「競争」が事実行われていることは疑う 余地はないでしょう。
白兵戦での人斬りは1回の戦闘で3−4人が限度。しかも白兵戦は1回くらいしか しなかった(野田−志々目証言)ですから、その実態は捕虜の据え物斬り競争しか 考えようがないでしょう。
また、向井遺書では「公平な人が見れば戦闘行為」であるところの競争を行っている と書いています。白兵戦での人斬りは「誰が見ても戦闘行為」であるのは明白です。 では「誰が見ても戦闘行為」以外の【公平な人】だけが「戦闘行為」と認定する種類 の「戦闘行為」とは何なのでしょうか。
当時の日本軍将兵は正式な捕虜、つまり日本軍自身が捕虜と認めたものたちさえ、 殺害することをときに「戦闘行為」と呼んでいました。また、日本軍が自らは捕虜と は認めていなかったところの投降兵、敗残兵(これらは戦意を喪失し日本軍の手に 落ちた時点で日本軍の権内にあるので国際法上の捕虜に当たります)については もちろん、堂々と殺害していました。
そして、日本軍が彼らを殺害するときには好んで日本刀による斬首を行ったことも 事実です。
また、鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」の中で50人斬ったとも100人斬ったとも伝えられる藤井曹長というひとの発言が紹介してあります。
−しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。
つまり、 1.当時の風潮として将校はしばしば白兵戦で何人も斬ったという種類のホラを言った。 2.それに対して人斬りのプロである藤井曹長がそれはあり得ない、据え物で斬ったと いう話ならわかる、という認識を示している。
ということで、両少尉に似た言動がしばしば見られたが、自ら白兵戦でも据え物斬り でも活躍した軍曹の言によって、そういう場合は据え物斬りをそう吹聴していると 判断されるということがわかります。
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