『中国の旅』脚注より
>本多勝一氏が何を書いたかも、巷ではかなり「流言蜚語」が飛んでいるようです。 >そういう意味で、資料集や、どこに、どういう記事があるかというような情報は必要ですね。
その流言蜚語の一つが、阿羅健一に代表される以下のような言説ですね。 ------------ このとき、改めて、ふたりは戦意高揚の記事のために処 刑されたことが明らかにされましたが、朝日新聞と本多 勝一記者は、その記事を単行本にし、さらに平成十一 年、本多勝一氏は「南京大虐殺否定論13のウソ」(柏 書房)にも書き、しかも途中からは、ふたりが捕虜の据 え物斬り競争をしたと書くようになりました。 http://www.senyu-ren.jp/100/002.HTM ------------
以下に、本多勝一『中国の旅』(朝日新聞社)の単行本の脚注から引用します。 私が引用した本は、昭和47年7月29日発行の第9刷です。ちなみに、第1刷は昭和47年3月25日発行です。 本多勝一氏が相当初期から、百人斬り競争は捕虜の据え物斬りだと認識していた事がわかります。 ------------ <注4263ページ> 『東京日日新聞』の昭和十二年十二月十三日付紙面 に、この件に関する次のような記事が出ている。
(KOIL:注 以下、東京日日新聞の記事が転載されている。)
* また、ここに到るまでの経過については、同紙の同年一一月三十日紙面に第一報、一二月六日の紙 面に第二報が出ているので、これは第三報に当たる。また、月刊誌『丸』の一九七一年一一月号には、 この第三報を送稿した鈴木二郎記者が、両少尉から取材したときの状況を「私はあの”南京の悲劇” を目撃した」として、報告している。さらに月刊誌『中国』(徳間書店)の一九七一年一二月号では、 野田少尉が故郷の小学校をたずねて、このときのことを語った自慢話が、直接きいた志々目彰氏(中 央労災組織推進部)によって紹介されている。それによると、野田少尉は次のように語っている。 「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。占領した敵の塹壕にむかって 『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並 べばせておいて片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆 どだ」 このニ少尉は戦後、国民党蒋介石政権によって南京で裁判にかけられ、死刑が決定野田毅被告は 一九四七年一二月八日、向井敏明被告は一九四八年一月二八日午後一時、それぞれ南京郊外で処刑さ れた。(二人の各出身地である山口県玖珂郡由宇町役場および鹿児島県肝属郡田代町役場の戸籍係の調査から) もと陸軍将校の機関誌『偕行』には、一九七〇年七月号から一九七一年一月号までの七回にわたっ て、野田毅被告の遺言が連載されている。 -------------本多勝一/『中国の旅』/昭和47年 p298−299
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