すみません、正確に引用します。
昨日はちょっとアルコールが入っての投稿でしたので、(中略)の語がいつのまにか抜けてしまったようです(汗)
趣旨は変わらないのですが、余計な突っ込みを避けるため、「中略」した部分を含め、正確に引用しておきます。
「正論」掲載「やっぱりなかった大虐殺 南京攻略戦、真実の証言」(東中野氏)より(P122)
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(A伍長日記の引用あり)
どうであろう。A伍長の所属する第十三連隊(熊本)は十六日に南京を離れていたことが分かるであろう。ちなみに、南京を離れるまでの間を整理してみると、十二日から十三日の夜明けまでは全師団が、十三日は第六師団の大四十五連隊(鹿児島)の一部が、敵も味方も殲滅するための激戦に遭遇していた。
十三日の城門陥落後、第十三連隊は「散髪」「火葬」などをしている。
十四日、十五日には南京を離れる準備をしている。十九万もの集団虐殺に従事していたならば、「散髪」や「火葬」や「告別式」どころではなかったのではないか。
ただし、これはA伍長の所属する第十三連隊だけのことであるので、第六師団のすべてを言い尽くしたものではない。しかし十四日に「近日出発らしい」とA伍長が記していることから、陥落翌日には第六師団の転戦計画が立てられ、それが下級兵士にも伝わっていたことが分かる。「散髪」などの休養も、「火葬」「告別」もA伍長の所属する第十三連隊のみに認められていたとは考えられないので、おおむね、どの連隊も同じ状況にあったと言える。
事実、鹿児島第四十五連隊の浜崎富蔵(元鹿児島市警察署長)の『どろんこの兵』(私家版)に、歩兵第四十五連隊第十一中隊「百六十名」が十二月十三日未明南京を脱出中の敵兵「二万」と上河鎮で遭遇し多数の戦死者を出したあと、同日「大薗中隊長以下十数柱の火葬」を行ったと記している。
そして十六日の夜明けとともに第十三連隊は南京から蕪湖に向かい、その他の部隊も逐次南京を離れていった。
従って、中華民国は第六師団が十六日から南京を離れ始めていたことを知らなかったのである。そうとも知らずに第六師団は「二十一日迄」南京で虐殺したと書いていた。
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しかしここに引用された肝心の「どろんこの兵」の中に、第四十五連隊が「二十二日」まで南京にいた、との記述があったわけです。
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