転載:星徹さんの記事
本多氏が係争中の論点である「百人斬り競争」に関する論争について星徹さんが非常に的確な記事を〜月刊『あれこれ』2003年9月号「月刊反撃」欄〜に掲載されています。今回の本多氏の係争についてわかりやすい概要になると思いますのでご本人の許可を得て転載します。転載は自由ですがその際には〜月刊『あれこれ』2003年9月号「月刊反撃」欄〜が出展元であることを明記してくださいとのことです。 尚下記の転載記事はWEB用に改行段落等編集してあります。
---転載開始--- 『正論』七月号の「百人斬り」記事に異議あり! 星徹(ルポライター)
強盗に入った側が入られた側を「強盗だ!」と決めつけるような稲田朋美弁護士の歴史認識には、はっきり言ってウンザリするが、ここはグッとこらえて、「百人斬り競争」の記述についてだけ批判しておく。「百人斬り競争って何?」と思う方も多いだろうから、簡単に説明しておこう。
一九三七年一一月上旬以降、日本軍は上海方面から当時の中国国民政府の「首都」南京までの約三〇〇キロを一気に攻め込んだ。そして同年一二月の南京占領当時を中心に、南京大虐殺(南京事件)を引き起こしたのだ。この「百人斬り競争」は、南京へ攻め込む途上の出来事として、『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)で報道された。向井敏明・野田毅両少尉が、どちらが先に一〇〇人の中国人を斬り殺すかを競い合った、などという四本の記事であった。以下に、その一部を紹介する。
〈・・・野田少尉は無錫を距る八キロの無錫部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。 その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。・・・〉(一九三七年一一月三〇日付記事より)
〈・・・野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」・・・・両少尉は“アハハハ”結局いつまでにいづれが先きに百人斬つたかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよ〜〜百五十人斬がはじまつた、・・・〉(一九三七年一二月一三日付記事より)
向井・野田両氏は、日本の敗戦後に拘束されて南京へ移送され、軍事法廷で死刑宣告を受け、四八年一月に処刑された。罪名は「捕虜・非戦闘員の屠殺(殺害)」だった。この判決文は明らかとなっているが、裁判の詳細な記録は未だ公開されていない。故に、これら新聞記事が唯一の証拠であったかどうかは未解明のままだ。
この「百人斬り競争」について、『朝日新聞』の連載ルポ「中国の旅」で本多勝一記者(当時)が、中国人からの伝聞としてかんたんに紹介し、両少尉をA・Bと表記した。その後、単行本の『中国の旅』『南京への道』では、両少尉を実名で記したうえで注釈で詳細な根拠を示し、「百人斬り競争」が完全な捏造とは言い難いことを明らかにした。そして、これらの文庫本以降は、両氏をM・Nとし、さらに詳しい検証を加えた。
今回、両元少尉の遺族らが、本多勝一氏・毎日新聞社・朝日新聞社・柏書房の四者に対し、この「百人斬り競争」に関する記述は名誉毀損にあたるなどとして、東京地裁に提訴した。対象となる本多氏の著作は、文庫本以降のものだ。
この『正論』の稲田氏の文章は、自らの主張に都合の悪い事実を巧妙に隠し、論点をすり替えている。稲田氏は、〈いわゆる「百人斬り」が戦意高揚のための創作記事であったことが明らかとなっている。〉(六四ページ)、〈「百人斬り」が戦意高揚のための創作記事であったことは、現在では論争や公開された資料によって明らかになっている〉(六六ページ)などと繰り返し述べるが、こういった記述は読者を誤解させるものだ。以下に、検証の基礎となる重要な事実関係を二点だけ明確にしたい。
まず第一点。『東京日日新聞』に掲載された「百人斬り競争」の記事は、明らかに両少尉の証言に基づいて書かれた、ということだ。このことは、この取材をした浅海一男記者・鈴木二郎記者・佐藤振寿カメラマンの証言から明らかだ。以下に、佐藤氏の証言を紹介しよう。 〈あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。─それなら話はわかる、ということになったのですよ。」〉(『週刊新潮』一九七二年七月二九日号より)
さらに、両少尉の遺書にも、それを認める記述がある。稲田氏は、向井・野田両氏の遺書のなかで、読者の同情を誘うような部分だけを意図的に「抜粋」の形で掲載しているが(六七ページ)、ほかに以下のような部分もある。
向井氏の遺書。〈野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、とのことです。〉〈公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。〉(『復刻 世紀の遺書』講談社・一九八四年)
野田氏の遺書。〈○向井君から父上へ「口は禍の元、冗談をいったばかりに、大事な独り息子さんを、死の道連れにして申し訳ありません」とのことです。〉(月刊『偕行』一九七〇年九月号)、〈向井君の冗談から、百人斬り競争の記事が出て、それが、俘虜住民を斬ったというのです。〉(同一〇月号)
ところで、遺族が遺品の中から野田氏の「手記」を二〇〇一年三月に見つけたとし、その文章が『正論』同年八月号に掲載された。この「手記」が書かれたのは死刑判決後のことで、記者がでっち上げの記事を書くために両少尉に相談を持ちかけたとする場面が「再現」されている。しかし、これを裏づける証拠・証言はなく、「手記」が書かれた状況も考え合わせると、証拠能力は決して高いとは言えないだろう。
これらのことを総合して考えると、「この記事は両少尉の証言に基づいて書かれたもの」という見方は、他に決定的な証拠でもない限りは翻せないだろう。
第二点。そもそも、稲田氏の言う「百人斬り」とは何を意味するのかが不明確で、本多氏らの主張とかみ合っていない、ということだ。当時の『東京日日新聞』の当該記事のすべてがそのままの事実であったと信じる人は、現在ではほとんどいないだろう。記事の一部には、相手が戦闘員なのか捕虜や非戦闘員なのかが不明確な記述もあるが、刀や槍による白兵戦みたいにバッタバッタと切り倒していったかのような個所は、現実ばなれしている。そういった個所については、事実が脚色または作り替えられている、と考えるのが自然な見方であろう。
この問題をどう考えるべきかを示唆してくれるのが、志々目彰氏の証言である。 志々目氏が鹿児島で小学生だったころ(おそらく一九三九年の春)、学校に野田毅「少尉」が来て、生徒を前に以下のような話をしていたのだ。
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・ 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない・・・ 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・ 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ・・・ 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・・」(月刊『中国』(徳間書店)一九七一年一二月号に掲載の志々目論文より)
本多勝一氏は、一九七二年に出版した単行本『中国の旅』(朝日新聞社)ですでに、この志々目証言を注釈で取り上げているので、本多氏は「記事そのままの白兵戦で百人斬り競争をした」などとは、当初から考えていなかったことが分かる。本多氏自身、〈こういうこと(志々目証言─星注記)が真相だったのであろう。これでは、あの武勇伝も実は「据えもの百人斬り」であり、ようするに捕虜(または「捕虜」とされた一般民衆)虐殺競争の一例にすぎなかったことになる。〉(『南京大虐殺否定論一三のウソ』(柏書房・一九九九年)に所収の本多論文より)と述べているのだ。
当時の日本陸軍将校にとっては、中国人の捕虜や非戦闘員の「据えもの斬り」(斬首)は一般的だったようだ。時代はこの「百人斬り競争」より数年あとになるが、鹿田正夫少尉と曽田吉一見習士官は、当時まだ一人も「据えもの斬り」をしていないことに劣等感を持ち、その機会をやっと得て中国人を日本刀で斬首した、と私に語ってくれた。当時は中国人を殺したこともないような将校は一人前とは見なされなかった、と二人は口をそろえる。私はその他にも多くの同様の証言を得ており、日本陸軍の将校のあいだでは、中国人の「据えもの斬り」がごく一般的に行われていた、ということがこのことからも分かる。
稲田氏は以上あげた二つの論点に関する諸々のことには知らん顔で先のように述べるが、読者を誤解に導く悪質な記述と言わざるを得ない。
そもそも、この問題においては、A「向井・野田両少尉は実際に何を行い、何を行わなかったのか」とB「南京軍事法廷の判断は正しかったのか」とC「(『東京日日新聞』の記事や本多氏の記述を名誉毀損とする)遺族らの東京地裁への訴えは正当か」は、分けて考えられるべき事柄のはずだ。Aについては、今となっては分からないことも多い。Bについても、未解明な部分が多い。そしてCについて、今回の訴訟となった。しかし稲田氏は、こういったA・B・Cの論点をゴッチャにして、両元少尉や遺族らの感情面を前面に押しだすことにより、読者の同情を誘うのに躍起になっているのだ。
これまで分かっている事柄から言えば、本多氏らに落ち度のないことは明らかだ。 日本の侵略戦争の事実を未だに認められない稲田氏は、この問題を大いに利用して、「南京大虐殺はまぼろし」にしたいのが本音だろう。稲田氏や産経新聞社の関係者らは、亡くなった日本人やその遺族にはいたく共感し同情するが、中国侵略中の日本軍に殺された幾百万の中国人やその遺族には、同じような感情を持たないのだろうか。
(プロフィール)ほし・とおる ルポライター。著書に『私たちが中国でしたこと』(緑風出版)、共著に『南京大虐殺歴史改竄派の敗北』(教育史料出版会)
月刊『あれこれ』2003年9月号「月刊反撃」欄より
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