『正論』誌、平成14年11月号の阿羅雑文批判を2002/12/19に当板に投稿したが、続けて聞き取り方法はどうあるべきかについて書こうと思っていた。
阿羅氏から兵士の聞き取りの手法についての次の批判があった。
A1.数十年前の事件についての記憶であるから、あやふやな部分があるはずだ。何回も聞いて、勘違いや記憶違いを取り除かないと聞き取りにならない。
A2.聞き取りに応じるか、否かは本人の自由だから、まず、手紙で依頼し、電話で確認し、承諾してもらう。
A3.松岡さんは虚をついて強姦や殺害を語らせるかに腐心している。これでは、別の人が聞けば違った話になる。
A4.すべて匿名で所属が大隊までの表記になっているのは反対尋問にさらされて告白が崩壊するのをおそれているからだ。
A5.告白が事実かどうか、さらにまわりの兵士から聞き取りをし、確認をとり、裏をとることが必要だが、まったくしていない。特に強姦や殺害の告白についてそれが言える。
阿羅氏の本文は少し拡散気味でまとまりがないので、私が意をくみ取り箇条にまとめたことを明記しておく。
ところで意外なことにほとんど同様の批判が南京大虐殺の在野の研究家である小野賢二氏からされていた。次の批判の要旨も阿羅氏の場合ほどではないが、整理のため、私が少し書き直したものである。
『南京戦』何が問題か 小野賢二 『週刊金曜日』 2002/12/20(441号)
O1.事前調査、事実関係を知った上でなければ、証言の真意の把握はできない。 O2.対象とした部隊が多いのに準備期間が短すぎる。 O3.聞き取り回数が少ない。 O4.いきなり訪問するのはよくない。あらかじめ、手紙で申し入れるべきで、断られれば行くべきでない。 O5.突然の訪問はしてはいけない。 O6.元兵士の私生活を乱してはいけない。 O7.ビデオ、カメラ、カセットを持ち込めば、信頼関係は崩れ、抑圧的・高圧的となる。 O8.編著が杜撰で誤りが非常に多い。
■ 証言は史実を語らなければならないという誤った考え方(A1,5とO1,2,3,8)
両者に共通するのは証言者に完璧な真実、誤認のない真実を語らさせよ、という姿勢である。証言者が事件当時に誤った認識を持っていたとすれば、それを訂正させよ、編著に反映させよ、年月を経たことによる誤記憶をも訂正させ、編著に反映させよという主張になる。そして、実際の著書に記された誤まった認識と誤記憶についてO8の非難をぶつけている。
これはまったくの誤りである。聞き取り者が証言のあれこれの間違いに介入し、当時の誤った認識や、誤記憶を訂正する努力を傾ければ、その聞き取り証言は一次史料ではなく、編著者による二次史料に転化するのである。引用者が引用文の誤字・脱字、旧かな遣いなどの一字一句を完全に再現しなければ、ときにはそれがもとで引用文がねつ造に転化するおそれさえある。あるいはそう受け取られるおそれがある。ちょうどそれと同じく、証言者の誤まった認識、誤記憶はそのまま再現すべきなのである。
証言者の誤った認識はその証言者の事実に対する認識の程度を示している。誤記憶はその事実に対する印象度の深さを示している。誤った認識、誤記憶で丸ごと史料を形成しているのである。これを強引にただそうとすれば、聞き取り者の認識や、価値観、ときには恣意が無意識のうちにでも証言の中に織り込まれることになるのである。
ところが阿羅氏と小野氏は証言自体がすべて真の事実を語らないといけないというのである。そのために、長時間かけて事前調査をしたり、他の証言と引き比べて証言内容を修正して出すべきだ、そうでないと証言にならないというのである。これは証言内容イコール史実でないといけない、というまったく誤った考え方に基づいている。証言は史料の一種であり、それは歴史の構成材料であって、歴史の内容そのものではないのである。
材料をどう判断するか、どれをとり、どれを捨てるか、あるいは証言のどの部分だけを生かすかなどは読者ないし、歴史家にゆだねられるべきなのである。
他の証言者との照らし合わせをして、証言者に「あなたの記憶は確かか、誰々さんはこう言っているが」という情報をもたらせば、あるいは、証言者は発言を撤回、修正することがあるかもしれない。ただし、他の証言・記録と考えあわせて、「自分の方の記憶違いかもしれない」と思い直してした証言はすでに、その人のオリジナルな証言ではなくなる。 そして、もし、そのようにして得られた証言であるならば、その修正過程をきちんと記録しておかなくてはならない。阿羅、小野両氏はそうではなく、それらの修正作業は編著者が自分の判断で読者の目にはさらすことなく、秘密裏にすることを考えているようである。
修正作業の情報は正しく記録されなければならない。その修正作業の中には不適切なものがあったか、なかったか判断するのは聞き取り者以外のものにまかせなければならないのである。
証言の中にある当時の誤った記憶、言葉遣い、それも容易にわかるものはそのままにしてよい。これは証言の信憑性について疑いを持たせるものではないからである。しかし、本人が意図して隠し、あるいは故意に嘘をついていることが明らかな場合、その疑う根拠を示して真実の発言を引き出す努力を惜しむべきではない。
たとえば、松岡氏は聞き取りのさいに当人の日記を読み、本人の証言との食い違いを指摘し、何回か嘘の証言をしたことを暴き出している。
他の証言内容との照らし合わせは読者ないし歴史家の仕事なのである。照らしあわせを行った結果、食い違いが大きく、どうしても再質問を要するならそれは再び聞き取り者にリクエストされるべきである。
ところで、是非とも修正しなくてはならない内容もある。それは体験内容、目撃内容の日時・場所が明らかに違っていると感じられるときである。これだけはきちんと確認しておかなくてはならない。これがなければ、他の証言との引き合わせそのものが不可能になるからである。
■ 突然の訪問について(A2、O4、O6) これは聞き取りの任意性について問うていることになる。南京事件について元兵士が証言を拒否、忌避する最大の理由は自ら手を下した、殺害、強姦その他に対する良心のこだわりであることは言うまでもない。『南京戦』の記述を読んでもほとんどの兵士が自らの非道な行為について、そのときはどうあれ、今では深く悩んでいるのが見て取れる。
しかし、南京事件についての聞き取りをすることは自分がした行為と向き合うことを避けがたく求める行為にほかならない。したがって、元兵士の証言忌避の姿勢を尊重し、元兵士の心の平安を完全に保障することは聞き取りの目的とは相反するのである。あらかじめ来意を告げて、元兵士にあれこれと思い迷わせ、結果として証言を拒否する理由を見つける時間を与えることになる。
松岡さんの聞き取りは結果として、突然の訪問であっても応じてもらっているのである。聞き取りが私生活を乱すようなものであれば、その時点で聞き取りを止めて帰ってもらっているだろう。
■非道な行為、特に強姦について (A3) 強姦などについて他の人に聞き取りをさせれば違う結果になる、という。これはまさしく、そうであろう。このような証言はもし、本当にしていなければしたとは絶対に言う性質のものではない。また、本当にしていた場合も信頼関係がなければ絶対に言うものではない。したがって、証言した時点で他人の証言との引き合わせなどまったく必要はない。証言の任意性は発言があったということで完全に証明されているのである。
■ビデオ撮影などについて (O7) 小野氏がビデオ、カメラ、カセットを持ち込めば、信頼関係は崩れ、抑圧的・高圧的となる、というのは承伏しがたい。このようなことが出来るのはむしろ信頼関係があることの証明ではなかろうか。もし、証言者に耐え難いことがあればその時点で証言は中断されるはずである。
阿羅氏が証言否定の立場から埒もない批判をするわけはよく理解できる。しかし、小野氏が否定派と同列の低水準の批判をあえて雑誌という媒体を通じてする訳は理解できない。もし、松岡氏のやり方に疑義があるなら、雑誌ではなく、手紙などで行う方法もあったろう。
小野氏に言いたいこと、反論したいことはまだあるが、南京大虐殺の解明に大きな力を尽くされた氏をおとしめるのはもちろん、私の主意ではない。私の主目的は聞き取りの正しいやり方を提示することである。それによって小野氏にもわかってもらえるのではないかと思う。
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