昭和18年に出来た標語です。
「支那事変」では双方が戦争ではないと主張していたため、日本、中国とも戦略物資を自由に第三国から輸入出来ました。第三国がどちらか一方に輸出の拒否をすると拒否した国からは敵国と見なされるという規定がありました。アメリカは中国にシンパシーを持っていましたが、それだからといって石油禁輸によって日本との戦争に及ぶことは考えていませんでした。
日本の石油製品の輸入先はほとんどがアメリカでした。昭和一六年八月に至って日本が南部インドシナまで進駐するに及んでやっと対日石油輸出禁止の措置が取られています。それまでの日米関係の緊張状態からすると意外なほど遅い決定です。
それはともかく、南京戦直前には南京は中国の首都であり、道路の大きさや建物の巨大さに京都より広い、大きいと兵士たちが陣中日記など記しています。その道路には元は多くの自動車が走っており、ガソリンスタンドが営業し、城外には徳士古(Texaco)石油などの石油貯蔵庫があったそうです。日本軍はこの石油、ガソリンを思うまま使うことが出来ました。 捕虜や便衣兵容疑のものを機関銃で倒したあとに、ガソリンなどをかけて焼き、まだ息のあるものが動くのを見つけては銃剣で刺殺するのは理にかなっています。ただし、焼くのに使った油が、すべて本当にガソリンだったかどうかは判然としません。記述によってはケロシン、石油と記すものもあります。
戦利品であり、日本軍のなけなしの軍用自動車、戦車に使うには十分で、ケチケチ使うようなことはありませんでした。
「石油の一滴は血の一滴」は日本では昭和18年に使われ始めた標語です。
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