渡辺さんと私の違いは・・・
>都市部も農村部も避難した人々の被害がどうかというところが、ポイントになると思います。スマイス報告では、農村部については議論していますが、都市部については、避難した人々については論じていません。
>「これらの人々は城外にいたものと考えられる。スマイスたちの聞き取り調査では、調査を受けた家族は、「拉致」されたり避難した人たちの安否を知らない。従って、はっきり家族によって死亡と回答された者は、埋葬記録より少ない二四〇〇名にとどまったと思われる。」《中帰連24号pp96》
>「当時の中国では、家族の一部を家の番に残して避難することが行われていた。」 《中帰連24号pp95》
(5)私は城内に留まったものの中から「掃討」や「便衣兵摘出」のために拉致・殺害された人数は1万2000人よりはかなり多かったのではないか、と考えています。ボートリンの収容所からの拉致数からの見積もり、国際救済委員会への訴えから計算された見積もりは始めに挙げました。
正確な由来は不明ながら、報道を通じても早くから市民の虐殺数の見積もりが出されています。次の二つは早い時期なので城外の殺戮を含まない推定と思われます。 ■【中央社南昌《十二月》二十四日電】[牛古]嶺の外人側の情報によれば、敵軍は南京占領後、強姦・略奪などあらゆる悪事を働き、我が国の難民の四〇歳以下の男子で惨殺されたものは五万人の多きに達しているといわれる。
■顧維鈞 1938年2月1日 国際連盟議事録 日本兵が南京と漢口で行った残虐行為についての信頼出来るもうひとつの記録は、米国人の教授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、一九三八年一月二八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』紙に掲載されています。南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。
▲また、城内における「掃討」や「便衣兵摘出」の総数はもちろん不明ですが、第十六師団歩兵第三十三連隊第三大隊所属の松田五郎さんの小隊では十二月十四日に二百五十人の中国兵(容疑)を民家から捕らえ、その日のうちに処分しています。仮に同じ比率で各隊が処分したとすれば連隊では9000人規模ということになります。一時は5万人の日本兵がが城内に駐留で常駐したことを考えると殺された市民の数は決して少なくないと思います。
(5)渡辺さんの考えは「7万人がすべて陥落時に城内にいたのではない。(多くが)城外郷区に避難していた。そして多くが避難先で殺されたと思われる。」ということではないかと思います。渡辺さんのこの考えは私の考えの及ばない盲点でした。
この7万人は城内に係累を持つ脱出者です。この場合どういうケースがあるでしょうか。単独の脱出者は生産年齢の男性が主力になるでしょう。複数の家族構成員が脱出するときは夫が主となってそれに妻、こども、そして余裕があれば老人を伴うという形になるでしょう。
城内を日本軍進攻寸前に脱出した主力は南京市に比較的最近流入した男性単身者と見ています。この層はおそらく農村で過剰人口となり、南京市内に流入しました。人口の急増期には男女比が高まり、一戸当たりの員数が多くなるという現象があり、人口の停滞ないし減少期には逆に男女比が低下し、、一戸当たりの員数が多くなるという現象がありました。
ということは、新規の男性単身者は現代のように独身寮に入ったり、独身用マンション、アパートに住むのではなく、親戚を頼って同居し、一戸の員数を増したと思われます。彼らが定職・定収入を得るようになると出身地の家族を呼び寄せ、あるいは配偶者を得て新に世帯を設けたと考えられます。
彼らは単身者なので移動は自由が利き、城内に近親家族がいるわけではないので心理的な負担も有りませんでした。彼らの中でおおよそ半数が城内に残り、半数が避難先でやはり難に遭ったのではないかと考えています。
(6)南京城内から消えた7万人はどこに行ったのか。その多くが南京市に戻っていないことは確実です。1941年3月には、南京市区全体から失われた市民の数は9万人になりました。1941年の統計はあいにくと利用できないのですが、1946年1月には城区47万人、郷区18万人の計65万人でした。ちなみに1941年3月の南京市人口は62万人です。仮に城区、郷区の帰還率が同等とすれば、城区ではやはり6.5万人くらいが、帰ってきていないということになります。
(7)私は7万人のうちのおそらくは半数くらいは城内で「掃討」ないし「便衣兵容疑」で連行・射殺されたのではないかと考えています。渡辺さんも7万人の大部分は城外において結局は難に遭ったと考えておられるのではないでしょうか。とすれば私と渡辺さんの違いは彼らがどこで難にあったと考えるかということだけではないでしょうか。
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