阿羅健一批判の補遺 阿羅は南京大虐殺を肯定した記者などの発言に対し、その否定証言を求めてインタビューをしています。今回、石川達三、鈴木二郎、前田雄二、今井正剛などの肯定発言、長勇中佐の言動についての補強証言を発見しましたので紹介します。
総じていえることは阿羅健一が意図的に否定証言をしているものを選んでインタビューをしていることと、阿羅本の内容を持ってしても、いったん肯定証言をしたものたちの発言そのものを覆すに足る、新発言を得ることは出来なかったこと、そして肯定証言は日本人証言者だけでもこれに数倍、数十倍の規模で存在することです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ■石川達三は東京裁判の閉廷後のインタビュー 「読売新聞」1946年5月9日付けの記事から 入城式に送れて正月私が南京へ着いたとき街上は死屍累々大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶絶させた。また武装解した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江岸へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机に捕まって川を流れて行くのを下流で待ち構えた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片っぱしから殺害した。
■徳川義親 日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮になったという。長中佐が自慢気味にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、「長、その話だけはだれにもするなよ」と厳重に口止めしたという。(徳川義親『最後の殿様』)《藤田とは藤田勇のこと》
■東京日々新聞 鈴木二郎 わたしはふたたび中山門に取って返した。そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、谷量虐殺にぶつかった。二十五メートルの城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。 神経の凍る思いで、その場を去り、帰途にふたたび『励志社』の門をくぐってみた。さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名余の敗残兵が、針金でしばりつけられていた。どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。二,三人がツルはしをもってたっていたので工兵と知れた。そばに立っているわたしには目もくれず、そのなかの一人が、その大木の前に立つと、「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」とさけぶや、やにわに、ツルはしのさきが"ザクッ"と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。それをみたあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできず、ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。・・・この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるものもいた。 (鈴木二郎「私はあの”南京の悲劇”を目撃きした」−南京入城直後〔十二月十二日のことらしい〕の記事)
■同盟通信記者 前田雄二 軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。後者の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引き出し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き抜く。悲鳴をあげて壕に落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫び立てる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。・・・・交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。私は辛うじて十人目まて゜見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。・・・ 午後支局[同盟通信社の野戦支局]を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村太郎をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも処刑が行われていたのだ。死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。・・・ 「記者さん、やってみないか」兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っ込めた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と従すすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり。捕虜の背中に銃口を接近させると引き金をひいた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。(前田雄二『戦争の流れの中に』−十二月十六日の記事より)
■東京朝日新聞 今井正剛 「先生、大変です、来て下さい」血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人ともへいたいじゃないのだから早く言って助けてやってくれというのだ。アマの後には楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員・・・と私はあわてふためいて飛び出した。 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向かって六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後から、日本兵が小銃の一斉射撃、ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘いっぱいにひびき渡る。次、また六人である。つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされていくのを、空地にしゃがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな目付でながめている。・・・そのまわりをいっぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。・・・ 傍らに立っている軍装に私たちは息せき切っていった。「この中には兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」「どいつだかわかりますか」「わかる。女房がいるんだ。呼べば出てくる」返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声を上げて女房が呼んだ。群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出してきた。・・・・ たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。「まだやりますか。向こうを見たまえ。女たちが一ぱい泣いているじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君は空地から離れた。何度目かの銃声を背中にききながら(今井正剛「南京城内の大量殺人」十二月十五日の記事より)
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