〜尚徳義の場合〜 尚徳義(南京在住雑貨小売業者) 私は一九三七年に『上海路華新巷一号』(避難民地区内)に住んで居りました。其年の十二月十六日午前十一時頃日本の兵隊(中島部隊の兵かと思はれます)に依りて拘引せられました。同時に拘引せられましたのは、私の兄徳仁、元嘉興航空站書記を勤めて居たもの、又私の従兄徳全、元絹物商なりし者、及氏名不詳の隣人五人とでありました。二人づつ一本の縄を以て手を縛り合され、揚子江岸の下関に連行されました。其処には千人以上の一般男子が居りました。皆座はる事を命ぜられました。其私達の前四、五十ヤード(注・約36メートルから45メートル)の所には、十余基の機関銃が私達に面して居りました。四時頃になって一人の日本将校が自動車に乗って来まして、日本兵に私達に対して機銃射撃を始める様命令しました。射撃に先だって私達は起立を命ぜられました。私は、射撃の始まる直ぐ前に地上に仆れました。忽ち私の上に屍骸が覆ひ被さりまして私は気を喪ひました。 約五分後に私は死骸の山から這ひ出して、さうしてそこから逃げ私の家に帰ることが出来ました。
尚証言の検証 尚承認はまことに調子よく逃走できたものである。射撃直後にうまく倒れた。覆い被さる死体の中で失神。その間わずかに5分、4時(午後であろう、連行初めが午前11時頃であるから)は冬でもまだ明るい。眼前50メートルに足りない近距離に十数基の機関銃を配列している日本兵の目をどのように潜って逃げることができたのか。更に下関は城外である。日本兵が厳重に警備している何処の城門をどのようにして通り家に帰ることができたのか、まるでマジックである。 次は、尚証人を連行した日本兵は「中島部隊の兵かと思う」ということについてである。上海派遣軍および第十軍を通じて、「中島部隊」と呼べるのは第16師団(師団長、中村今朝吾中将)だけである。 12月16日は、第7連隊による難民区掃蕩の最後の日で、それ以外、分けても第16師団は城外掃蕩に出ており、城内掃蕩はやっていない。 尚、第16師団の城内掃蕩は12月13日と14日のみ。中山東路以北、中山路以東であり、その他は第9師団の担当。 第16師団は15日と16日に城外掃蕩、これは17日に湯水鎮より軍司令部(上海派遣軍、中支那方面軍)が中山門へと入城式をするため、途中に敗残兵が出ないように掃蕩。 以上、全く根拠も理由もなく、名指しで「中島部隊」についての証言を弄するは、第16師団の下関における激しい追激戦を、虐殺にすりかえようとする意図が見え見えである。
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