とほほさん、皆さんはじめまして。皆さんの御説、資料リンク等、いつも興味深く拝見させていただいております。 もちろん、「戦争を知らない子供たち」の一人である私にとっては、管理人さんたちと真っ向から対立するご意見もまた大変貴重なものです。 現象論としてね(^.^)
さて最近大塚英志氏の刊行物を再読しているのですが、その独特の(しかし私にはシンプル且つ本道と感じられる)平和と民主主義への考え方に接して思われるのは、
> 私の子供の頃は周囲に戦争経験者が多かったもんで、 元日本兵のカニバリズムなんて、嫌と言うほど聞かされ > ましたよ。勿論、この経験談を話した人達も、何も記録は残していませんし私も内容に触れる気もしません。
という熊猫さんの言葉にあらわれるような「歴史の証人たち」が日々いなくなっていくことです。先人の、生活者として戦争を伝える言葉が次々と失われていっている、その恐怖を感じます。 まあ、恐怖などと言っても所詮はバーチャルなんですが。でも、例えば皆さんの実証的な議論のそこかしこにも、この問題をひしひしと感じます。 また、重い体をおして精力的に「戦争」を伝えて歩く年配の方々が、政治的文脈での批判の中で「共産主義礼賛の世相(戦後民主主義の風潮)の中で洗脳をうけたのだ」などと揶揄されたりするのには、様々な意味で落胆を覚えます。
思えば私も十代二十代の頃には、こういった語り部たちの言葉に真正面から向きあう事をしませんでした。いや、あろうことか「お涙頂戴」としか捕らえない傾向すらありました。若い人間の不見識無理解をただ愚かと断ずることは害でしかありませんが、しかしそれをもって言い訳とするつもりはありません。かつての自分の愚しさは まだ思い出すにはちょっと辛い、恥ずかしい記憶です(-_-;)
すいません。コメントとしては少々的外れで、だらだらと長くなってしまいました。 言いたかったのはこうです。「語り部の不在を期待する傾向・言動」又は「語り部の不在を突く言説」が、戦前戦時を擁護する層の中に あった/ある のではないかということ。それは例えば大塚氏の論文に限らず、もっと実証的な研究の場においても問題とされるべきことなのでしょう。 ・・・いや、ひょっとしたら当然の危機として既に認識されているのかも知れません。 でも、私と同年代の人間が「これが実証的な歴史認識だ」「国益第一だよ」などと、戦争・戦後を容易に相対化する言説に踊らされるのを見るにつけ、大きな疲労感とともに 父母祖父母の世代への甘え(『お願い、タスケテヨ〜』)が頭をもたげてくるのです。
|