『正論』2005年1月号に小野田自然塾理事長 小野田寛郎氏による「私が見た『従軍慰安婦』の正体」という文章が載っていますが、「従軍慰安婦」問題についての貴重な証言を含むものですので、紹介いたします。 http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/seiron.html
先ず、小野田氏の立場ですが、掲載誌が『正論』ということからもある程度わかりますが、この文章の冒頭で次のように述べています。
【引用開始】 首相の靖国参拝神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全くの理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言者として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。 【引用終了】
さて、「『慰安婦』は完全な『商行為』であった」かどうか、小野田氏自身の証言を具体的に見ていきましょう。
1922年生まれの小野田氏は、旧制中学卒業後、貿易商社に就職し、17歳の春、中国の漢口に渡り、「日本軍が占領してまだ五ヶ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことに」なります。 小野田氏は、その街に「漢口特殊慰安所」と看板に黒々と書かれた施設が存在することを知ります。初めは「特殊慰安所」の意味が分からず、「なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた」のですが、やがて、その「特殊慰安所」が日本軍将兵専用の売春施設であることを知ることになります。 そして、この「特殊慰安所」にコンドームなどを納入していた業者を営む知人に誘われて、「一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った」のでした。
その「漢口特殊慰安所」の「慰安婦」についての小野田氏の証言を抜粋します。
【引用開始】 半島出身者に「コチョ(伍長ー下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長ー兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でベンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。 【引用終了】
一日に27人もの兵士を相手にすることもあったようで、想像を絶する非人間的な状態であったようです。 また、上記の「足を洗う」の意味、及び「慰安婦」の女性達がどのようにして集められたかについて次のようにあります。
【引用開始】 明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされたことに変わりはなかった。先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して、規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇である。 【引用終了】
どうやら、当時の国際法上も国内法上も違法な、前借金による人身拘束を「慰安婦」の女性達は受けていて、債務奴隷状態だったようです。 また、朝鮮では、「あくどく詐欺的な手段で女を集めた者」もいたようで、騙されて連れて来られた女性もかなりいたようです。 「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた」との話は、小野田氏は嘘だと解釈していますが、この話の真偽をきちんと確かめたわけでもないようです。少なくとも「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と涙で訴えていた女性はいたようです。
別の箇所で小野田氏は「これでは誰がどう考えても『商行為』であるとしか言いようがないだろう」と言っていますが、小野田氏の証言を読む限り、どう考えても商行為ではなく、性奴隷制であったとしか言いようがありません。
では、このような当時の国際法上も国内法上も違法な性奴隷制に、当時の軍は、どのように関わっていたのでしょうか。 小野田氏の証言を続けて見ていきます。
【引用開始】 しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。 【引用終了】
どうやら、「漢口特殊慰安所」は憲兵に守られた施設だったようです。別の箇所では「一般在留邦人が入れない場所」だったとも小野田氏は述べています。
さて、小野田氏は、20歳で現役兵として入隊し、中国江西省南昌の部隊に出征します。その南昌の「慰安所」について、軍との関わりを、さらに詳しく述べています。
【引用開始】 私は幹部候補生の教育を南昌から三〇キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で、「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。 【引用終了】
「連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた」というのですから、「慰安所」は民間の施設ではなく、まぎれもない軍の施設であったようです。 そして、小野田氏は、連隊本部の営舎係として、この「慰安所」の「屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認」していたのだそうです。軍がしっかりと「慰安所」を管理していたことが分かります。
以上のように、「慰安所」(公式名称では「軍慰安所」)は、鉄条網で囲まれた軍の守備陣地内で営業していた軍の管理下の軍の施設であり、そこで日本軍人相手の売春に従事する女性達は詐欺的な手段で集められ、前借金により人身拘束を受けるという債務奴隷状態であり、ときには、一日に27人もの兵士を相手にするという想像を絶する非人間的な状態であった、その一端が小野田寛郎氏の証言から窺われます。
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